【120年前の歴史は今】台湾高雄の日本人遊郭の名残りを探せ

本日は高雄市に来てます。
こちらは高雄港です。
中華民国で最大規模、世界で12番目の取扱量を誇る高雄港。
高雄港はもともと漁港や近隣貿易の拠点でしたが日本統治時代に近代的な港湾整備事業を行い現在の高雄港の原型ができたそうです。それにより高雄は発展しました。現在も高雄は海上交通の要衝となってます。その高雄港でフェリーに乗りました。

船はいいですね。
やっぱり旅といえば船です。船で海外へ渡航する。
飛行機の方が早くて便利ですがあえて船を選択するってのも旅の楽しさの一つ。
旅は移動も楽しまなきゃ!
波に揺られながら時間をかけて旅をする。そういうゼイタクな旅もいいですね。
こちらは片道80台湾ドルの観光フェリーで乗車時間は10分です。
すげー短い。
フェリーに乗ってるのは対岸に向かうため。これより私は旗津島ってところに行きます。
旗津島は海底トンネルで陸路でもつながってます。その海底トンネルは台湾唯一なんだとか。
それを見るのも旅の醍醐味ですがフェリーを選択しました。
中心地からだと フェリーの方が短時間で渡れるから。
移動に時間をかけない旅スタイル。

こちらが旗津島です。
旗津島は細長く幅200mで長さは11.3km。防波堤のような形をした島です。
船を降りたところは旗津老街という繁華街。本日はお祭りをやってるようです。
街の中心に天后をまつる神社があります。どうやらそこのお祭りのようです。

それがこちら、旗津天后宮です。
海の神様である媽祖様をまつる廟。17世紀中頃に福建の 漁師らが建てたんだとか。
海に面した旗津島。まさに島に適した神様。信心深い人が多くいるようです。

祭りだからかもしれませんが町は賑やかです。
露店が軒を連ねています。普段はもう少し静かなのでしょうか。
でもここはかつては賑やかな場所だったそうで日本が統治し始めたころここに遊郭がありました。
遊郭跡地に船で来るヤツ。

こちらにあったのは旗後遊廓という名前でした。
日本が台湾統治を始めたのが1895年。その6年後の1901年に遊郭が設置されました。
設置されたのはここ旗津島。かつての地名は旗後だったので旗後遊郭と呼ばれてました。
旗後は島ですが海に面していたため高雄で一番最初に発展した地域でした。
当時の街の中心はここだったのでしょう。でも時代が進むにつれ中心は台湾本島へ。
島に渡るのが不便となったのでしょうか。1918年に遊郭を移転させます。
移転理由は不便だから ではありません。
理由はいろいろあるようで、
旗後遊郭は下水が不十分で衛生的ではない。
建物が過密しているため火災の危険性がある。
道が狭く警察の巡回ができず治安維持が難しい。
古い建物が多く開発が難しい。
港湾開発に影響がある。
都市開発の基準を満たしていない。
そして、交通の便が悪い。
やっぱり不便だから移設されてた。

移設には反対意見もあったようですが紆余曲折あり無事に移転することになりました。
移設先は栄町ってところ。こちらが遊郭があったところです。

日本では遊郭跡地は特殊浴場街になります。
吉原は特殊浴場街。川崎南町も特殊浴場街。なかには住宅地になるところもありますが比較的風俗要素が強めの街に生まれ変わります。でも台湾は違うようで遊郭跡に学校があります。すごい文化的。
今はすごい文化的な教育機関がありますがかつては非文化的な性教育機関があった場所。
こちらには最盛期に12軒の貸座敷があり、娼妓芸妓あわせて 250人もいたそうです。
ちなみに川崎遊郭は貸座敷が9軒で遊女は190人なので高雄の遊郭の方が規模が大きかったようです。
吉原は貸座敷が300軒。遊女は3600人ほどいたそうです。異常な規模。
結構な数の遊女を抱えてた栄町遊郭。それだけ抱えてたってことは繁盛してたのかな?
台湾人はエロいエロいってことではなく利用していたのは内地人。つまり日本人でした。
出張先で風俗行くやつ。
ここにあった遊廓は日本人向け。そして遊女もほとんどが日本人。
あとは朝鮮籍の人がいました。
必ず出てくるコリアンアガシ。
大盛況の遊郭でしたが今はなんの名残りもここにはありません。
それもそのはずで太平洋戦争末期、台湾も空襲被害に遭っています。
長崎・広島・東京 名古屋・大阪・神奈川・静岡・兵庫・山口 福岡・鹿児島。日本全土に無差別攻撃を受けた大空襲。日本が統治していた台湾も例外なく狙われました。高雄市は台南に次いで被害が多く空襲による戦死者は1662名、建物の被害は4万棟以上にのぼったそうです。その際に遊郭も空襲被害に遭っており壊滅。どこの遊郭も戦後はいち早く復興していましたが高雄にあった遊郭は復興することなく10月25日の日本統治終了と同時に廃業。遊郭はなくなりました。このようにして高雄の遊郭の歴史は幕を閉じ今ここにはそのような施設はありません。

遊郭跡地が風俗街にならずに学校となったのは台湾人が遊廓の代わりを必要としなかったから。
そもそもここにあった遊郭は日本人向けでした。日本人のいなくなった台湾には必要ない施設。
だから文化的な施設に生まれ変わったのです。
でもでもえろい台湾人が黙っていません。
そのためかつて遊廓があった場所近くに盛り場をつくりました。
日本が持ってきた遊廓文化ですが日本統治が終れば遊郭制度もなくなります。
遊郭は内地人向けだったので台湾人には不要な施設。困る人もいないのですが台湾統治をしていたのは50年間。朱に交われば赤くなるとはいうもので台湾人もソレが好きになったのでしょう。実際に現地人向けの遊郭もあったみたいですし。
そんなわけで中華民国版の公娼制度を作り公娼街ができました。ソレがあったのがこのあたりです。

こちらは高雄市歴史博物館です。
こちらの裏手が公娼街だったんだとか。博物館裏手が公娼街?文化的な施設の裏手に非文化的な施設。それは公序良俗に反する。不適切すぎるんじゃないでしょうか。
いやいやソレは違います。
現在は博物館ですが当時は別の用途で供されてました。

ここは当時、雄市政府庁舎でした。
公の秩序善良な風俗。
公序良俗とはこれ如何に!
公務員が序に行く優良な性風俗。
これが公序良俗。

庁舎裏手が風俗街。
盛り場を支えるのが公務員なのは万国共通だった。

市役所裏手、府北里村。通称、市政府裏。直接的な名称。
ここは人気があったそうで1960年代後半には100軒の娼館と1000人の娼妓がいました。
規模が遊郭の比じゃない。

当時と比べると4倍に膨れ上がってる。
しかも当時の遊郭はクラブ的な要素があり、体をうらない芸妓もいたそうですがこの市政府裏は娼妓だけで1000人。これはかつての吉原とタメ張るレベル。それだけの規模の店があったってことはそれだけの利用者がいたってことでしょう。やはり盛り場を支えるのは公務員のようです。

しかし1971年に大規模火災が発生。それにより多くの売春宿が焼失したそうです。その後も数軒の店が営業してたそうですが2003年に最後の店が閉鎖。それにより遊郭の名残りは消えてしまいました。







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