労働者の街から社会福祉の街へ 八丁駅そばのドヤ街「川崎日進町」
本日は川崎の八丁畷駅に来ております。
川崎駅前はかなり整備されてキレイな街並みとなりましたがこの界隈は昔ながらの川崎の雰囲気が味わえます。
横浜、大阪、名古屋、札幌、福岡に次いで川崎は人口が6番目に多い政令指定都市。それなりに人が多くいる地域です。そして川崎駅が川崎市の中心地です。
その川崎駅の一つ隣にある八丁畷駅ですがまさかの無人駅なんです。京急と併設されてるため実際のところは無人駅ではないのですが大都市川崎のそばなのに寂れているんです。
難読地名の一つでもある八丁畷。余り名前を聞かない駅。一応京急線とJR線の二路線使える駅なんですがJRといっても浜川崎支線って路線で地元民か工場関係者しか乗らない路線です。川崎新町、小田栄、浜川崎がある浜川崎支線。川崎市民の9割が行くことのない駅ですが支線沿いに住む人にとっては重要なんでしょう。京急の乗換駅でもある八丁畷駅は主要駅なんです。川崎駅の西側って鶴見区のイメージがありますが実際はここまでが川崎市内になります。八丁畷駅から200m西に進めば鶴見区です。その先に鶴見川があり川を渡れば横浜の領土です。ある意味このあたりは横浜と川崎の緩衝地帯です。
川崎駅から西に延びる片側一車線の道。こちらは旧東海道でかつては街道でした。八丁畷の名の由来は八丁のあぜ道があったのが由来のようです。
このあたりは麦の郷と名前がついており昔は麦畑が広がっていたそうです。
こちらには松尾芭蕉の句碑があります。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
松尾芭蕉はここで門弟たちと別れを告げ大阪に向かったそうです。その際に詠んだ句みたいなんです。
松尾芭蕉が50歳の頃の話。芭蕉はこの句を詠んだ5カ月後に亡くなっています。旅立つときすでに死期を悟っていたのでしょう。もう二度と会えない仲間たちへの思いがこの句には込められているのでしょうね。江戸に住んでいた松尾芭蕉ですが門弟たちはわざわざ多摩川を越えて見送りました。その当時多摩川には橋はなく渡るのが困難でした。それにも拘らず門弟はここまで見送ったのです。それだけ芭蕉は門弟に慕われていたのでしょう。でも川崎にはその当時、遊郭がありました。
門弟、芭蕉と別れたあと遊郭に行った説。出張のついでに風俗行くのと同じ感じ。なんか感動の別れのような感じだけどただ遊びに行くついでに挨拶しただけ。西成の宿が安かったからそこに泊まった、実は飛田新地が通うために西成泊まったのと同じ。芭蕉ではなく遊女に会いに来ただけ。
門弟「芭蕉さんも遊んでいけばよいのにな!」
別れた後こんな話をしていたのでしょう。そして門弟は南町の遊郭に行ったんでしょうね。門弟は7人いたそうです。これは団体割引できるやつ。
このように八丁畷がある日進町。江戸の頃は田畑が広がる街外れでしたが駅前に飲み屋街があります。こちらはなわて横丁という飲み屋街。線路わきにあるセンベロ横丁のようなところ。でも現在はアジア感が強めです。多民族国家の川崎はアジア要素が強いんです。インドとトルコの店が飲み屋街にあります。あまり利用者が少なそうな八丁畷駅前ですがこのような一杯飲み屋がある路地があります。この手の飲み屋があるのは需要があるから。日進町と呼ばれるこの界隈はドヤ街だったのです。
現在このあたりはマンションが立ち並ぶエリアですが以前は簡易宿泊所が軒を連ねるドヤ街でした。
駅近くには貧困層を対象とした施設があります。
でも周りを見てもマンションばかり。このような状況になったのは理由があります。
2015年5月、この地にあった簡易宿泊所で火災が発生しました。火災は17時間も延焼し簡易宿泊所二棟が全焼、死者11名に重傷者が17名の被害がありました。死傷者が多かった一番の原因は建物の構造に問題があったからのようです。
建築基準法では三階建て以上の宿泊施設は鉄筋コンクリート造にしなければなりません。しかし延焼した簡易宿泊所は木造建築でした。この手の施設は増改築をしているところが多く防火設備がない 避難経路が確保されていないなど色々な問題があるのでしょう。しかし宿泊施設の設備投資が嵩めばその負担は利用者の懐に重くのしかかります。安いのにはそれなりのリスクが必要なのです。
簡易宿泊所があったところにはマンションが建ってます。かつては小汚く 近寄りづらい場所でしたがキレイな街並みにかわりました。延
焼した宿泊所の隣りは警察署があります。神奈川県警ってイメージがあまりよくないですが警察署がそばにあるならば街の治安も維持できているのでしょう。日進町は警察署が近くにあるから治安も安心です。
ちなみに簡易宿泊所の火災の原因は放火です。
これはエクストリーム放火!
警察署の真横で放火するヤバいやつがいる川崎。
そしてまだ犯人が捕まってない!
警察署がそばにあるから安心。そんなのは川崎では都市伝説です。
このように簡易宿泊所が燃えたことで日進町は有名となりました。てっきりすべてがなくなったと思ってたのですが現在もまだ宿泊所は残っています。京急の線路を越えた先に宿泊所が数軒あります。
こんな感じで地図で示してくれています。簡易宿泊所にも組合みたいなのがあるようですね。なんか温泉地の旅館案内図みたい。街の成り立ちもこれでなんとなくわかります。
簡易宿泊所の利用者の多くは日雇い労働者や住所の無い人たちです。ホームレスも多いのでしょう。このあたりはホームレスが集まる簡易宿泊所がある地域。
と思いきや簡易的な性行為をするホテルがあります。川崎のホテル街は駅東側だけにあると思ってましたがまさかに西側にもありました
川崎にはホームレスとエロしかない!
まぁホームレスといっても家がないわけではなくそこに住んでいて住民票も持ってる人もいます。
そのため厳密にはホームレスの街ではありません。ただ最低限の生活を強いられている人はこの界隈には多くいるのでしょう。
近くには福祉施設もあります。簡易宿泊所のそばには職業安定所があるもんですがここにあるのは高齢者向けの福祉施設。高齢者が多いってことがうかがえます、
全盛期はこのあたりに50軒ほど簡易宿泊所があったそうです。川崎は港湾業務や鉄工所などの工場があります。まさに川崎は労働者の街なんです。
その歴史は古く19世紀末に工業化が始まり第一次世界大戦のころは軍需により発展し、関東大震災により被害に遭った都内の工場が移転したことで工業都市となりました。それにより出稼ぎ労働者が集まりました。地方から川崎に移り住む人が増えたことで多文化共生区域となったのです。コリアタウンや沖縄人コミュニティがあるのは工業化が由来のようです。
戦時中は人手が足りず韓国の人も働いていました
。また高度経済成長期は多くの労働者がいたのでしょう。需要があったため市内にはドヤ街が複数できました。日進町はその中のひとつです。このように川崎の発展を支えたドヤ街。現在も川崎は工業都市ではありますがドヤ街にいる出自が不明瞭の人を採用するのはコンプライアンスの問題があります。企業の法令厳守により働き口が減っているようです。そのため労働者のためのドヤ街というより生活保護受給をするための施設となっています。
その結果現在は20軒ほどに減っているようです。宿泊所を廃業し建て替えているところもありました。
そして残っている宿泊所も。バックパッカー向けに切り替えているようです。川崎であれば羽田空港も近く東京までも一本で出ることができます。比較的便利な場所です。外国人旅行者が利用するにはちょうどよい場所なのかもしれません。
この街は生活保護受給者の街となっていましたが徐々に変化しているようです。もうホームレスが集まる街ではないようです。
こちらはドヤ街の中ほどにある簡易宿泊所。どうやら火災に遭ったようです。2024年4月に同宿泊所で出火、死者二名の被害があり宿泊所は全焼したそうです。出火原因はモバイルバッテリーが原因なんだとか。
私はコロナになる前の2019年にこの地に訪れています。その当時はこの簡易宿泊所は健在でした。木造の多い簡易宿泊所、先の火災でなくなったようにいつ消えるかわかりませんね。時代は常に流れています。
私が川崎に住んでいたのは今から20年ほど前、すでに川崎駅はキレイに整備されていましたがそれなりにホームレスが街を歩いていました。
多摩川河川敷、競馬場裏、富士見公園、そして日進町を根城にしている人が多くいたのです。心がファニーなホームレスも多くおり結構治安が悪かったです。そのような危険と隣り合わせの川崎、歓楽街の中にチェーン店の定食屋がありました。
そこの朝定食が安いんです。
安い朝定食が食べられるので人気店だったんです。そして何よりも素晴らしいのがごはんのおかわりが無料なんです。安い朝定食を頼めば腹いっぱい食べられるんです。そんなわけで私は明け方まで飲んだ後そこで“遅めの晩御飯”を食べていたんです。安く腹いっぱい食べられる店、当然ホームレスの人も多く集まってました。
実は同じ釜の飯食ってた。
でもそんな街は徐々に変化しています。街ナカにホームレスを見かけません。変な人に絡まれることもありません。このようにかつての川崎とは変わりました。かつてはホームレスのたまり場だった日進町。街中には酒盛りしているホームレスがいましたがそれも見かけなくなりました。
と思いきや酒盛りしてる!まだ午前中ですがすでにできあがってます。これが健康で文化的な最低限度の生活。まだまだ川崎っぽい所、探せばあるもんです。まさにこれが川崎の文化です。
殺風景な街並みを明るくするためでしょうか。ドヤ街に面する京急線の壁に絵が描かれてます。
One foot in front of the other.
直訳すると「片足をもう一方の足の前に出す」で一歩一歩進むって意味のようですが「困難でも歩く」って意味もあるんだとか。麦の郷と呼ばれた日進町に集まる、かよわき麦の穂を掴まなければならない人たち。まさに困難な人が多く集まるドヤに適した標語。この標語が掲げられているってことはまだこの街を必要としている人がいるのでしょう。簡易宿泊所のそばには無料低額宿泊所、いわゆる無低があります。生活困窮者のための施設で今付近にいた多くのホームレスはこの手の施設に入居しているのでしょう。
困窮から脱出する最初の一歩がこの施設ですがさらにもう一歩踏み出すのが難しいのが現状です。とくに高齢者の場合は仕事がなくて病気がちです。そのためワンフットだけになるのでしょう。でも受け止めてくれる街が川崎にはあります。
道端で酒盛りしているし治安も良くないけど、放火犯がまだ捕まっていないけど、急に怒鳴ってくる変なおじさんとか多いけど、警察署のそばは治安がよいのは都市伝説だけどやっぱり川崎はよい町です。
今日はせっかく日進町にいるんです。やっぱり川崎っぽい所味わいたいですよね!
川崎の日進町のよいところは芭蕉の門弟が訪れた時と変わらず令和の時代にも遊郭的な店があることです。日進町のドヤ街に泊まって南町に遊びに行く。そんな川崎ライフを満喫できるんです。
今日はどの店にしましょうか。
松尾芭蕉は大阪に向かったそうですが私は堀之内の「京都」にしようかな。東海道を歩かなくても 川崎には京都があるんです。