明治なってできた千葉市の遊郭「千葉新地遊廓」
千葉駅に来ております。
私は千葉の房総に土地を持っていたため千葉県には頻繁に訪れていました。また浦安や松戸、柏にも頻繁に訪れています。しかし千葉市へはあまり行く機会がなく、立ち寄ったとしても車でした。なんとなくモノレールの走っている風景は目にしていたものの、千葉駅前に来たのは初めてでした。本日は近いけど遠い千葉駅付近を散策します。
首都圏の神奈川、埼玉、千葉。何かとこの三県はライバル視されています。人口や発展度合いから考えると神奈川は頭一つ抜けており、埼玉と千葉、どっちが都会なのか?で争われています。浦安、市川、船橋、松戸、そして柏と比較的大きな街がある千葉の方が都会っぽい感じがしますが、県庁所在地で考えると千葉市は少し離れていて不便な場所です。
東京駅から横浜までは電車で24分です。埼玉の大宮の場合も24分です。しかし千葉駅までは40分かかるんです。まぁ大宮の場合は新幹線なのでズルしてるんですが、普通電車でも32分です。距離も横浜・大宮は30kmに対し千葉駅は40kmあります。しかも起点が一番千葉が最寄りの東京駅なのに千葉駅が一番遠いんです。
とはいっても県庁所在地で政令指定都市でもある千葉市。
駅前は栄えているし、なんとなく近代都市っぽい雰囲気があります。
江戸の頃からこの辺は物流の拠点だったようで房総半島で取れた作物や海産物をここを経由して運んでいたんだそう。明治になり印旛県と木更津県が合併し千葉県が誕生しました。その際にちょうど中間地点だった場所がこの付近だったため県庁所在地になりました。これが千葉市が県庁所在地となった理由です。たしかに千葉の中央に位置しています。とくにその当時は鉄道が開通しておらず、水運が主だったのでしょう。港のそばを中心地にしたのも理由の一つなのでしょう。
こちらの住所は登戸(のぶと)です。川崎市民なら100%登戸(のぼりと)と読んでしまう地名。現在も千葉湊と呼ばれ千葉港があるようにこのあたりは海運都市だったそうで、登戸の名も湊町が由来なのでしょう。港のあるところにはお金が集まります。お金が集まるってことはそれに群がる人たちも集まるもので、この界隈には遊郭があったんだとか。
登戸にあった遊廓は千葉市遊郭、千葉新地と呼ばれ、明治になってから作られました。千葉県が誕生したのが明治6年。その際に県庁所在地として指定されたため、ここに遊郭をつくれば儲かると考えたのでしょう。千葉に遊郭が新設されたのが明治12年、原田新五郎という東京の人が発起人となり千葉新地遊廓ができました。登戸に新設された遊郭は3000坪の敷地面積で正面は県道に接し、東西に門を設けていたそうです。遊郭のあった位置は登戸二丁目交差点付近、現在のTOTO千葉ショールームのあるあたりでしょうか。遊郭のあったところにTOTOのショールーム。
これはまさに肉便器。
そんな肉便器と揶揄された千葉遊郭。
現在は普通の住宅街となっています。この手の遊郭がなくなる理由の多くは「空襲による被災で...」ってのがお決まり文句ですが、この地区は少し異なります。
千葉市では昭和20年に大きな空襲が二度ありました。一度目は6月10日、2度目は7月7日の七夕空襲です。とくに後者の空襲被害は酷く、中心地の七割が焼け野原となったそうです。ただ登戸のあたりは戦災から逃れたそうです。遊郭を残してくれたのはアメリカの慈悲だったのでしょうか。それとも接収し慰安所として利用するつもりだったのでしょうか。
このように生き残った遊郭の末路は非合法組織が牛耳る合法とは到底呼べない店が軒を連ねる歓楽街へと発展するものですが、登戸の遊郭はそのようにはならなかったようです。
こちらは登戸一丁目公園ってところです。
ここに登戸地区土地区画整理事業の記念碑があり、ここには登戸の歴史が書いてあります。
土地区画整理が始まったのが終戦から20年後の1965年。それから23年の歳月をかけ区画整理をしたそうです。区画整理事業を行ったのは臨海部が埋め立てられ、中心地との中継地点である登戸近辺の整備が急務だったのが理由の一つですが、
それと「健全な市街地の形成を図るため」と書かれてあります。
土地区画整理事業では「健全な市街地の形成」という文言がたびたび使われます。
「流通の健全な市街地の形成」というような文章であれば土地区画整理は流通のためなんだなと思いますが、元遊郭だった土地の「健全な市街地の形成」はまるで以前は不健全な街だったといってるようなもの。つまりこの記念碑はここにかつて遊郭があった証拠の一つなのでしょう(しらんけど)。
こちらは登戸神社です。正式名称は登渡神社。
葛飾北斎が富嶽三十六景の登戸浦を書いた場所のようです。本日は雨で富士山は見えないし、晴れてももう見れない景色なのでしょう。遊郭の名残りがあるかと思い立ち寄りましたが何もありませんでした。戦後は1958年の売春防止法施行まで赤線として遊郭は存続するも、施行後は性風俗街とならず料亭や旅館に鞍替えしたそうです。しかしそれも思うように続かず、先の土地区画整理により登戸の歓楽街は消えてしまい、住宅街に変わりました。
現在の遊郭や花街があるのは駅の反対側のようです。私はそっちの街並みの方が好きなのでこれより向かいます。