都疎浜の東の外れ。山谷澪に沿ってあるバラック街
本日は船橋市に来ております。
こちらは船橋漁港です。東京湾に面した船橋漁港は新鮮な江戸前の魚が獲れる漁港です。船橋で有名な魚はアジ、サバ、イワシでしょうか。あとスズキの漁獲量は全国一位なんだとか。
こちらがすずきのお刺身です。水揚げされたスズキを血抜きした後に神経〆をすることで鮮度を保つそうで千葉の認定ブランド水産物になっているようです。
こちらはコノシロのつみれ汁。コノシロも漁獲量日本一のようです。スーパーではなかなか取り扱いのない魚、コノシロはこういうところでしか食べられません。
船橋は古くから漁業が盛んな地域でした。現在このあたりは市川と船橋くらいでしょうか。ほかの港は埋め立てられ工場街になってます。船橋も同様に湾岸部は埋め立てられていますが漁業権は放棄せず漁業が続いているようです。
こちらは船橋市役所です。
こちらの船橋市役所は1982年にできました。
以前は本町4丁目、本町中央公園に役所があったそうです。現在の市役所がある船橋市湊町はかつて塩田があった場所のようです。隣の市川市に塩浜や塩焼って地名がある通り江戸に近いこの界隈は塩生産が盛んな地域でした。西船橋のあたりも塩田があったそうですが船橋のあたりは江戸時代は塩田がなかったそうです。当時は漁師の力が強かったのが塩田ができなかった理由なんだとか。しかし明治になると状況は変わり政府主導で塩の生産がおこなわれました。
船橋の塩田は三田浜塩田と呼ばれ1880年頃から塩の生産が始まりました。しかし台湾での塩生産が伸びたことで供給過多となり生産力の低い塩田は整理することになりました。三田浜も1929年の塩田整理で廃止されました。
三田浜塩田だった場所には三田浜楽園という遊園地ができました。釣り堀や野球場、プール、ビリヤード場、そしてラジウム温泉に旅館があった三田浜楽園。まるで船橋ヘルスセンターと似たようなところ。船橋は当時からレジャー全振り都市だったのです。
しかも三田浜楽園の近くには1928年に海神新地という遊郭が設置されています。
まさに楽園。
ちなみに川端康成や太宰治が三田浜楽園に訪れここの旅館に逗留し執筆活動をしていたんだとか。
文豪ら、連日遊郭行ってた説。
三田浜楽園にあった旅館は2006年に廃業。現在はパークハウスプレシアタワーという131m、38階建てのマンションが建ってます。塩田だった場所が遊園地を経てマンションになる。なんか不思議な感じです。
塩田はとなりの南本町にもありました。
こちらの住所は南本町ですが通称「都疎浜」と呼ばれています。こちらは九日市塩田と呼ばれていましたが三田浜と同じように1929年に廃止されました。しかし三田浜のようにはならず塩田跡地は放置されていたようです。状況が変わるのは1943年頃。1942年に東京で空襲被害があったことを受け首都防衛強化のため強制疎開がはじまりました。その疎開先が九日市塩田があった場所でした。
周りとは違ってここだけ区画整理されています。
ここには東京から来た多くの疎開者が住みました。東京都から来た疎開者が暮らす浜という意味で「都疎浜」と呼ばれたそうです。部外者が集まってできた街。船橋は空襲被害が少なかった地域だったので戦後は多くの引揚者や元外地人が住みだしました。空いている土地に小屋を建て住みだした人もいたのでしょう。
こちらは山谷澪と呼ばれるところです。澪とは水の緒という意味で水路を意味します。山谷澪は船橋市街地まで魚を運ぶ運河でした。
近年の子供の名前は凛や碧といった漢字一文字を名付ける親が多いそうですが澪って名前にする親もいるようです。
水のイメージから美しくいて欲しいって意味を込めてその名をつけたのでしょう。その澪はこちらです。
ほぼどぶ川。そして結構異臭がする。
なんかこの雰囲気どっかで見たと思ってましたがバンコクのクロントイスラムに似た感じでした。ヘドロがたまっていて異臭がするんです。そして小さな虫が凄い多い。
かつては運河として利用されていたのでしょう。しかし使われなくなって以降は放置されたまま気が付けばどぶ川になっていたのでしょう。
そして川沿いに建つバラック小屋。
こちらは河川敷に建てられた違法建造物です。ここは東南アジアなんじゃないかって雰囲気。この景色は日本じゃまず見れません。なんとなく川崎の戸手4丁目外に似た雰囲気。
まるで川崎が日本じゃないみたい!
川崎の戸手4丁目には朝鮮集落がありました。山谷澪も似たような感じで住み着いたのでしょう。実際に船橋は在日朝鮮韓国人が多いエリアです。
駅前には韓国料理屋が複数あります。街のいたるところでハングルを見かけます。
こちらの飲み屋も韓国要素が強め。あとは駅前のぱちんこ屋くらい。
また駅近くには民団施設と総連施設があります。こちらは民団の施設です。
韓国会館ってビルで一階は韓国料理屋です。かつての市役所のそばにあった韓国会館、当時は影響力があったのかもしれませんね。
こちらは在日本朝鮮人総聯合会です。よくある雑居ビルで総連の施設とはわかりません。
総連と民団、二つの組織はどちらも韓民族ですが似て非なるもの。韓国と北朝鮮は融和に向っていましたが世界情勢のよって38度線の溝がまた開いてしまいました。同じルーツであるものの二つの韓民族とはまた違った在日と呼ばれる人たち。戦後80年の在日朝鮮韓国人の文化が、ここ船橋では味わえるのでしょう。
こんな感じで韓国要素が強めの船橋。爪弾きにされた人が仕方なく住んでいたとしてもなんらおかしくはないでしょう。ただ違法に建てられた住居。当然行政は排除しようとします。
かつては川沿いに軒を連ねていたバラック住居ですが少しずつ取り壊されているようです。取り壊されたところにはベンチが設けられてます。
まだ建物が残ってますが住人はいないようです。これらもいずれ取り壊されるのでしょう。バラックを取り壊し整備すればかつての澪は取り戻せるかもしれませんね。
遠くに見えるパークハウスプレシアタワーです。現在船橋駅前に高層ビルを建設中ですがそれが建つまではこれが船橋で一番高いそうです。船橋で一番高いところを一番低い場所から見るこの明暗のある景色はもうじき見れなくなります。かつてはこのような景色をどこの都市でも見れましたが撤去や整備により少なくなりました。綺麗な街並みになるのはよいのですが、この景色がもう見れなくなるのはそれはそれでさみしいです。
この景色が見れるのは今だけです。