山林生活

夜鷹に残飯屋。谷の底のスラム街「四谷鮫ヶ橋」の今

夜鷹に残飯屋。谷の底のスラム街「四谷鮫ヶ橋」の今

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東京は関東平野にあります。平野といっても実際のところそこまで平地ではなく起伏が激しいのです。東京は谷が多く存在し、地名を見ればわかります。例えば世田谷、渋谷。千駄ヶ谷も谷が付きますね。市ヶ谷や雑司ヶ谷、鶯谷。谷町もやっぱり谷にある街って意味なんでしょうかね。このように地名に谷がつく場所は起伏があり一段低い土地なのでしょう。

そして四谷も同じように「谷」がついています。四谷と呼ばれるようになったのは諸説ありますが、実際にこのあたりは起伏の激しい土地ですので、谷があったのでしょう。

迎賓館のこのあたりは緑豊かだし整備されていて居心地がいいですね。東京ってコンクリートジャングルなんて揶揄されますがけっこう緑が多いんです。

こちら南元町の交差点です。道の反対側に見えるのが赤坂御用地でその入り口に警察官の詰め所があります。こちらの詰め所は「鮫が橋門警備派出所」というところです。現在このあたりには川は流れていませんが、以前は川が流れ橋が架かっていたんだとか。

このあたりは低い土地でヨシなどの茂った池沼があり周囲から出た湧水が川となり鮫河となり赤坂のため池に流れていたそうです。その鮫河に架かっていた鮫河橋(さめがはし)と呼ばれ、その名称が派出所に残ったままとなっています。

鮫ヶ橋せきとめ神という小さな社があります。

赤坂御所があるので24時間体制で警察が警らしています。すごい安全な場所ですね。

四ツ谷駅にも近い、青山一丁目にも近い好立地。現在ここは一等地ですが、かつてここは貧民窟だったそうなんです。

基本的に谷のある場所は低地で湿地帯になっているところが多いです。降った雨は低い土地に流れます。谷底であればそこに水が溜まるわけで常に濡れた状態です。農業をするのも適さない、住むのも適さない場所でした。このように人が住まないところだから普通のところに住めない人たちが集まってくるのでしょう。江戸時代の頃からあまり良い場所では無かったそうです。

治安の悪い場所だったため、そういった輩も多かったのでしょう。鮫が橋には幕府非公認の売春窟でもあったそうで、ここでは「夜鷹」と呼ばれるいわゆる私娼が多くいたんだとか。
なぜ私娼を「夜鷹」と呼ばれるようになったのかは不明のようですが、実際の鳥獣である夜鷹(ヤタカ)は巣を持たずに卵はその辺の落ち葉の上に産むんだそう。この界隈にいた私娼は部屋などがないため青姦での対応だったようです。このあたりが由来なのかもしれませんね。
また余談ですが夜鳴き蕎麦は元々夜鷹蕎麦と呼ばれていたんだそう。夜鷹が食べてたからそう呼ばれるようになったというのがよく言われる説ですが、屋台で店を持たないから「夜鷹」と呼んだのかもしれません。もしくはプッタネスカ(娼婦パスタ)と同じように「手軽にできる」って意味を込めているのかもしれません。実際に夜鷹の料金は非常に安く、手軽に利用できたそうです。

江戸時代の女遊びは吉原ってイメージですが、店によっても違うのでしょうが一回行くだけで現在の貨幣価値で計算すると数十万かかるそうです。いわゆる銀座の高級クラブ的な立ち位置。現代でも庶民が銀座で飲むっていうのは金銭的にしんどいです。でも赤羽とかちょっとズレたところであれば安く済むんです。ここ鮫ヶ橋は安くて定評があり一回あたり24文だったそうです。ちなみにその当時のそばの値段は10~16文ほど。1杯500円で計算すると娼婦の値段は1000~1500円程度ってことですね。大塚に15分1500円のピンサロがありますがそれと同じレベル。
もちろんそんな値段だから部屋が用意されているわけでも無く、いたすのは外です。しかもここは湿地帯のような場所です。衛生的では無いですね。
また、こんな低い値段で身体を売るのにはそれなりの理由があるわけです。
年増で遊郭じゃ雇ってくれない人、これであればまだよいです。中には梅毒患者も多くいたそうです。遊郭で梅毒に罹り追い出されたものの稼ぐ手段が身体を売るしかないためここで働いていたのでしょう。

梅毒患者のことを「ハナモゲラ」って言われたりします。これは梅毒の末期症状になると鼻が取れちゃうからなんだとか。鮫ヶ橋は梅毒を患っている娼婦が多かったことから「花散る里(鼻散る里)」とも言われていたそうです。

この絵図は当時の鮫ヶ橋です。

絵図は北が下側、永井家は信濃町方向なのでおそらくこのあたりが該当箇所だと思われます。

鮫ヶ橋の地名は先ほどの交番と神社、それと中央線のガードくらいしか残っていないようです。

江戸時代の頃は売春窟で治安の悪い場所でしたが、明治以降になりさらにこの場所は悪化します。
明治に入り関所が廃止されると農村部から大量に人が流入。東京は人口過多で働き口がなく収入も少なかったんだとか。それにより鮫ヶ橋にも多くの人が集まりスラム化が始まったそう。このあたりは貧乏長屋が集まっており家賃も日払いで安く済んだんだとか。その結果鮫ヶ橋は日本最大級のスラム街となったそうです。

今では一等地なんですけどね。時代が変わればこんなにも違うんですね。

鮫ヶ橋に興味を持ったのは「残飯屋」というワードを知ってからです。安く食事を済ます方法はないだろうかとネットで探していたところ、明治時代に残飯屋という店があるのを知りました。

明治となり地方から東京に出てきたはよいものの仕事もないし稼ぎも少ない。そのような中で生活をしていかなければなりません。現代のように社会保障が充実しているわけではなく、明日の糧は自分でどうにかしなければなりません。仕事は日雇いで働き家賃を日払いで払うと手元に残るお金は微々たるもの。その少ないお金で食事を用意しなければなりません。できるだけ安く腹いっぱい食べるためにはどうすればよいか。一番安く済ませるには捨てたものを拾って食べることでしょう。

四谷鮫ヶ橋から北へ1kmほど行くと市ヶ谷があります。現在は防衛省ですが、明治時代はここに陸軍士官学校があったそうです。富国強兵をスローガンに掲げた明治時代。当然士官学校は食事など手厚かったのでしょう。寮で飯が出る。そうすると残飯も出るわけです。本来であればゴミですが、そのゴミを買い取る業者があったわけです。それが残飯屋。
陸軍士官学校の寄宿舎で出た残飯を安値で引き取り、それを売っていたんだとか。現代では賞味期限が切れそうなだけで破棄をするわけですが、その当時は食品衛生法などもなかったためこういったことができたのでしょう。

残飯なのでいろんなものが混ざっています。クズ野菜は味噌汁の具に、ご飯は一度水で洗うんだとか。要は生ごみを洗ってどうにか食べられるようにしていたわけです。夏場はすえた臭いのするご飯だったのでしょう。これだけ聞くと不安でしかないですが、残飯であれば調理済みなので火を必要としないため炭もいらない調理も不要です。そんなわけで残飯屋は毎回完売するくらい人気だったようです。

残飯屋自体は昭和のはじめころまで続いたんだそう。不味いけど量が多くて安い。戦時中食糧不足だった時も人気があったのでしょう。
実際にフィリピンのスラム街でも「パグパグ」というものが現在でもあるそうです。「パグパグ」とは残飯のことで残飯からゴミを掃うからタガログ語で「pagpag(振り落とす)」という意味なんだそう。ファストフード店の廃肉やゴミ箱を漁りその中から食べられるものを見つけ、それを売っているそうです。スラムでは当然のように食べられ人気商品なんだそう。残飯屋のソレとほぼ同じですね。日本では70年前には衰退しましたが、現在でもそれが続いている国が普通にあるんですね。

最近では見なくなりましたが一昔前であればゴミ箱から食べ物を漁ってるホームレスもいました。そういう人に比べるとちゃんと正規の場所?から入手した食品?を衛生的に洗浄?した食事ですから残飯屋のほうが文化的です。そういった店が鮫ヶ橋にはいくつかあったそうです。それだけみんな生きるのに必死だったのでしょう。

左手奥に見える建物は二葉保育園です。こちらは明治39年に開園したそうです。つまり貧民窟だったころに作られたそうです。
そもそもが「貧児のため」に設立した保育園だったそうで、この場所を選んだようです。生きるのに必死だと育児や教育はおろそかになってしまうものです。貧困は教育格差を生むのはいつの時代も変わりませんね。貧民窟の児童を助けるために開園したというのは恐れ入りました。

現在の鮫ヶ橋は見ての通り普通の街です。ここはちょうど谷底となっておりこのあたりは坂が多いです。
道がクネクネしているので昔は川が流れていたのでしょうね。ちょっと坂道があるから大変だけど、四谷までは徒歩数分の場所です。こんなところに住めたらいいですね。

電柱には聖教新聞の看板。このあたりもテリトリーのようです。

【言葉と生きていく】そうか、ここが宗教の街、信濃町
【言葉と生きていく】そうか、ここが宗教の街、信濃町

新宿で所用を済ませちょっと寄り道をしようと思い総武線に乗って信濃町駅まで来ました。 信濃町には仕事

そういえば信濃町駅からこちらに来るとき中年男性がついてきている感じがしましたがガードを抜けた後はいなくなりました。
でも、代わりに青年男性が一定の距離にずっとついてきてました。

これってもしかして!中年と青年が入れ替わってる??

「君の名は」の聖地となっている場所です。ここだと知りませんでした。まさか階段の下が貧民窟だとは知りませんでした。コロナ前は外国人観光客であふれていたそうです。今は多少落ち着いていますが、それでも撮影している人がいました。

階段を登った先にあるのが須賀神社です。四谷の鎮守様です。せっかくなんでお参りしていきます。

緊急事態宣言がずっと続きほとんど東京に来ていませんでしたが久しぶりに東京の街を散歩しました。やっぱり都心はいいですね。想定外ですが「君の名は」の聖地も巡礼できましたし。
ほかにも行きたいところがありますのでまたそれは別の機会に。これより歩いて新宿まで帰ります。

御苑トンネルの手前、新宿まで行く途中にある韓国文化院。ここって文化発信の場所だと思っていたのですが、大使館でもあったんですね。以前この付近は警察の護送車がずっと止まっていました。日本と韓国は色々とトラブルを抱えているので警備体制が強いのでしょう。竹島問題とか慰安婦問題とか。

なんせ韓国は前前前世から恨みがあるようなんで。

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