砂利採掘の街調布にあった「調布コリアタウン」
本日は調布市に来ております。
こちらは多摩川に架る多摩川原橋です。
東京と神奈川県川崎市の境を流れる多摩川。川崎市民は多摩川の恩恵を受けています。河川敷で生活している人がいたり、住んでいる人がいたり。私も多摩川には様々な思い出があります。歯がシンナーで溶けた人にカツアゲされたのもよい思い出。
そんな甘酸っぱい思い出のある多摩川。源流は奥多摩です。飲み水としても利用しているのでしょう。
と思って調べたところ、川崎の水道は相模湖や津久井湖など県内の水を使用しているんだそう。奥多摩湖の水を使用しているものだと思ったのですが、水道利権は都道府県ごとに分かれているんですね。そもそも東京でも多摩川水系の水の使用は少ないんだとか。
都内の人口増加で水不足を懸念し昭和32年に奥多摩にダム建設をしたようですが、結局多摩川だけではまかないきれず利根川から取水することになったそうです。それ以降は多摩川の水は2割程度しか利用されていないみたいです。
多摩川の水で育った人は意外と少ない。
それでも川崎は多摩川の恩恵をこれまで受けてきました。川崎が工業都市となったのも多摩川のおかげ。
多摩川沿いを走る南武線はかつては多摩川砂利鉄道と呼ばれ砂利を運ぶための鉄道でした。
多摩川の砂利は江戸の頃から採掘され、江戸城や武家屋敷の庭園の敷き砂利として利用されていました。明治以降は鉄道の敷石として使用、関東大震災以降は建築資材として需要が高まりました。
その辺に落ちてる石を集めれば金になる。ゴールドラッシュならぬグラベルラッシュが始まったのです。
しかし過度の採掘により河床が低下。それにより海水が遡上し、塩害による農作物被害があったんだとか。そのため1934年には日野橋までの採掘か不可となり、1964年には多摩川全域で禁止となりました。
このようにして多摩川のグラベルラッシュは幕を閉じました。
しかしそれで生計を立てていた人はくいっぱぐれるわけで、どうにかして稼がなければなりません。おそらく砂利の盗掘なんかもあったのでしょう。でもそんなリスクを負わずとも砂利が手に入るんです。
採掘が禁止されたのは河川敷の中です。それ以外の場所から採掘するのは禁止されていませんでした。
河川の流れは悠久の時を経て変わっていきます。多摩川は洪水を何度も繰り返し今の流れになっています。東京と川崎どちらにも等々力や丸子って地名があるように多摩川の流路は頻繁に変わっています。つまり多摩川沿いの陸地はもともと川だったところがあるのです。そこを掘れば砂利が出てくるでしょう。
ってことで採掘業者は川沿いの田んぼを買取り砂利採掘を始めました。
砂利を採掘することで大きな穴があっちこっちにできたんだそう。そのため多摩川沿いには河川より低地になっているところがあるようです。
川崎の等々力競技場にある等々力釣池も砂利穴を利用してできた釣り堀。多摩川ボートレース場も砂利採掘による賜物だったようです。競輪場の京王閣も元々は岡堀りで砂利穴ができたところにつくられたんだとか。
東宝調布スポーツパークも一段低くなっていますが、こちらも砂利穴があった場所。ある意味自然の地形を利用したゴルフコースなんでしょうね。
このように多摩川は砂利の生産拠点でした。でもそれも高度経済成長期の頃まで。かつては200以上の採掘業者があったようですが、それらは消えてなくなりました。
こちらには砂利の製造販売工場があります。多摩川が砂利採掘場だったころの名残りでしょうか。でもこのような企業はかなり限られているようです。
こちらには在日大韓基督教調布教会があります。
突然のコリア感。
こちらに教会ができたのは1950年ですが在日大韓基督教会自体は1883年に韓国人留学生により設立され古くからある教会でした。こちらに教会があるのは韓国人が多く住んでいたから。
このあたりに韓国人が移り住んだのは戦前。
朝鮮半島では仕事がなく生活が出来ない。そういう人たちが職を求めて日本に渡ってきました。すぐに就ける仕事と言えば単純作業や肉体労働。砂利収集は仕事として最適だったのでしょう。調布の多摩川河川敷近くに多くの韓国人が住んだそうです。
流路が頻繁に変わる多摩川。江戸時代に治水工事をするものの明治以降もたびたび洪水の被害に遭っています。現在でも洪水となり堤防が決壊すればこの付近は3m以上浸水する地域です。当時は住んでいる人がいなかったのでしょう。
この付近はだいぶ入り組んでいます。路地の中は川崎池上町っぽい感じ。接道義務が定められたのが1950年。そのため古めの建物も目立ちます。
こちらは河川敷内にある多摩川自然観察緑地です。現在はキレイに整備されていますがこの辺りにも韓国集落ができていました。
現在も堤外民有地があり農作物を育てている人がいますが、かつてはこのあたりにも住居もあったのでしょう。河川敷内の家と言えば河口の方をイメージしますが多摩川全体に集落があったようです。今はこのようにしてキレイになりました。
そこまで多くないものの韓国がルーツの店がちらほらあります。こちらは韓国食材を扱っているお店です。
自家製キムチを売っているようで店先には大根が干してありました。日本のキムチはキムチ味のする浅漬け。韓国のソレとは全く違うんだとか。ここであれば本場のキムチが味わえます。
同店は17時までしか営業していませんが店前にはキムチの自販機があり24時間いつでも買えるようです。真夜中に「キムチ食べたい!」ってなっても安心。
シッケってのが売ってます。
シッケは米に麦芽を加えて発酵させた日本の甘酒に近いもの。以前ベトナムでアッチムヘッサルっていうジュースを飲みましたがそれに近い味です。こちらの自販機では韓国らしい食材が手に入ります。
もろ日本語書いてある。
このあたりにはリサイクル業者や鉄くず屋があります。コリアタウンではこの手の商売を生業にする人が多いです。
こちらの鉄くず屋には何度かお世話になっています。30キロ以上じゃなければ購入してもらえませんが鉄くずであれば引き取ってくれます。
こちらには調布韓国会館在日本大韓民国民団があります。
在日韓国人、在日朝鮮人。韓国も朝鮮も同じ韓民族ですが、二つの在日は別物のようです。
こちらは在日本朝鮮人総連合会西東京南部支部です。民団が韓国系なのに対し総連は朝鮮系。同じ調布市内、鶴川街道を境に北側に総連が、南側に民団施設があります。都道19号線が38度線のよう。
民団も総連もどちらも朝鮮人連盟がルーツでしたが朝鮮戦争勃発によって袂を分かつこととなりました。以後60年間対立していましたが2000年代に入ってから和解の方向に向かい双方のトップが共同声明を発表しました。
韓国と北朝鮮も融和に向けて関係が改善した時もありました。まさに本国と民団と総連の関係は全く同じなのでしょう。このようにして一時は融和に傾いたものの2024年に入り北朝鮮は南北統一の実現はできないと発表しました。
融和が難しくなった今、民団と総連の関係も悪くなるのかもしれませんね。
韓国から移住してきた人が集まる街で現在も韓国にルーツを持つ人たちが住んでいますが、大久保のコリアンタウンのような韓国系の店が複数あるような場所ではありません。でも一応焼肉店はあるようです。
せっかくコリアタウンに来てるんです。韓国料理食べたいじゃないですか!ってことで本日はこちらの店に立ち寄りました。
老舗っぽい店。店前のメニューは古く値段は不明。ほぼ暗号です。
キムチをアテにビールを飲みます。
あとはハラミとホルモン。カルビとか頼まず最近はこの布陣です。これを食べておけば間違いありません。こちらの店は濃いめの味付け。それが酒にあいます。
メニューの裏に韓国おもしろカルタがあります。
私は韓国へ一度も行ったことがありません。でもこのようなカルタで韓国がどんなところなのか知ることができます。
三人寄れば金・李・朴。
日本の名字は12万種類あると言われていますが韓国では300種類程度しかありません。5人に1人はキムなんだとか。ちなみに北朝鮮と中国では「李(リ)」ですが韓国では「李(イ)」です。
負けるが負け。韓国人はめったに謝りません。なんとなく肌感覚でわかります。まさに韓国文化が知れるカルタ。
こちらも韓国の現状を語っています。一時は融和に進んでいた両国ですがロシアが戦争を起こして以降は関係が悪化しています。日本に近い国は韓国・ロシア・北朝鮮です。残念なことに2カ国行けない国があり、私が死ぬまでに行けるようにはならないのでしょう。
日本人にとっては手痛いカルタもあります。韓国を併合したのは1910年。1945年までの35年間日本が統治していましたが、日帝36年となっています。これは賠償金を多くもらうために年数を増やしているのではなく韓国が数え年を採用していたため。つまり韓国のいう千年の恨みってのは実際は999年ってこと。
でも数え年は国際的に不便なので昨年6月に改正されたそうです。
韓国が知れるおもしろカルタ、いいですね!
節子、それ韓国カルタやない。在日韓国カルタや。
調布コリアタウンで韓国を味わいました。焼肉にビール、サイコーです。でも一般的に言われる焼肉は日本発祥のもの。諸説ありますが在日韓国人がモツを焼いて食べたのがはじまりなんだとか。つまり私が食べたのは韓国料理ではなく焼肉でした。大久保に行けば本場韓国料理が食べられますが、ソウルまで2時間30分で行けるんです。
これはちょっと韓国行ってくるしなきゃですね。