殺人事件も起きた東京のスラム 森下にあった細民窟「高橋ドヤ街」
東京都江東区清澄。
こちらは清澄白河駅の北側、小名木川にかかる橋「高橋(たかばし)」です。
江東区や墨田区のこの辺りは江戸の頃に造成された水路があり、この小名木川も江戸時代初期に徳川家康の命で建設されたそうです。
橋があるのは清澄通り沿いです。橋を渡り北に進むと都営大江戸線と都営新宿線の乗換駅、森下駅があります。
こちらは森下にある深川神明宮です。
創建は16世紀末。伊勢神宮の分霊を勧請し創建したそうです。この付近が深川と呼ばれるようになったのはこの神社が由来のようで、深川八郎右衛門の一族がここに移り住み、土地を開墾したそうです。その際に敷地内に作った神社がこちらなんだとか。徳川家康より当地を開墾した深川の名を地名にするよう命じたことからこの近辺は深川となったようです。
現在は門前仲町の北側に深川一丁目と二丁目が残るだけとなりましたが、かつては江東区の西側が深川区でした。
境内にある寿老神社は七福神の寿老神がまつられており、延命長寿のご利益があるそうです。
森下は同社の門前町として栄えました。
こちらは高橋夜店通り、またの名を高橋のらくろード、もしくは高橋商店街。色々な名前がついていますが、この辺りが門前町として栄えたところでしょうか。
近くを流れる小名木川は千葉の銚子から両国までをつなぐ水上ルートだったようで、高橋のところには船着き場がありました。朝に行商人が千葉の方から船で訪れ東京で商いをし、夜帰る際にここに訪れる。それによりこのあたりは多くの人が往来していたそうで、夜店通りの名の通り、当時は深夜まで営業している店があったようです。
のらくろ―ドの名の由来は「のらくろ」の作者「田河水泡」の生誕地だからのようです。
のらくろは知っていますが、連載が始まったのは1931年。リアルタイムで見ていた人は90歳以上です。
こちらはのらくろーどの先にある都営アパートです。1957年に建てられたそうなので築65年以上。もうじき70年になります。
こちらは都営高橋アパートです。現在のこの辺りの地名は森下です。でもかつては高橋だったようで、この建物はその当時の町名の名残りなのでしょう。
28部屋あるそうですが、現在も入居できるのでしょうか。ちなみに一階のお店は営業していました。
終戦から10年。1950年代半ばには「もはや戦後ではない」と政府は宣言しました。そのころには高度経済成長期に差し掛かっていた時期ですが戦争の爪痕はまだ残っており、戦争未亡人や父親が戦死した母子家庭、また経済成長に乗り遅れた相対的貧困者が多くいたそうです。その人たちの社会保障として建てられたのが都営住宅。この地域はそのような人が当時多くいたのでしょう。
こちらには現在2020年に開業した認可保育園がありますが、かつてはここに木場公共職業安定所の深川労働出張所がありました。
一般的に職業安定所は万人が利用しやすいように繁華街の近くにあります。しかしここは閑静な住宅街です。こちらに職業安定所があったのには理由があり、森下のこの辺りはドヤ街でした。
森下のこの辺りがドヤ街となったのは江戸時代にルーツがあるようです。
17世紀末、徳川綱吉が統治していたころ、深川に「木場」ができました。その際に森下のあたりは職人が暮らし出したようです。しかしこのあたりはあまり住環境に適しておらず、明治に入りスラム街になっていったそうです。戦後は日雇い労働者が集まる街へ。
森下のこの辺りは「高橋ドヤ街」と呼ばれるようになりました。
新幹線敷設、首都高速建設、東京オリンピック。戦後に更地となった東京は建設ラッシュとなりました。日雇い労働者の街だった森下は戦後の高度経済成長期を支えたのでしょう。
戦前はスラムで戦後はドヤ街。この辺りはあまり治安のよい場所ではなかったのでしょう。実際に1981年に通り魔無差別殺人事件が起きています。深川通り魔殺人事件というもので覚せい剤を使用していた元寿司職人の男が、仕事にありつけず通行人を襲撃したというもの。労働者の集まる街だから起きた事件です。
犯人が宿泊していたのも簡易宿泊所。この付近にはその当時ドヤが複数あったようです。
事件があったのは新大橋通り。ドヤ街から森下駅方向へ200mの間で無差別に人を刺していったそうです。死者4人、負傷者3人を出し中華店に立てこもりましたところを現行犯逮捕されました。
身勝手な犯行動機で7人も殺傷してるため普通に考えれば死刑となりますが、犯行時は心神耗弱状態だったとして無期懲役となっています。
ドヤ街だった入り口には交番があります。犯人はこのあたりを通過しています。事件が起きたから交番ができたのでしょうか。交番があるのは事故や事件が多い場所、ここは治安が良くなかったようですね。でも今は改善されているのでしょう。
こちらには「國威宣揚」と書かれた石碑があります。昭和15年に建てられたようでで、石碑ではなく国旗掲揚台です。
建てたのは高橋三丁目会。この辺りが高橋と呼ばれていた名残りでしょう。
かつては山谷と肩を並べるほど町内には簡易宿泊所があったようですが、現在は少なくなっています。ドヤだったところは現在ビジネスホテルへ。住宅街の中にホテルがあるので異質な感じがしますが、上野や秋葉原、新橋にも出やすい立地です。ドヤ街のあったところは菊川駅と森下駅の中間あたりですが、二路線ある森下の方が利便性がよいのでしょう。
ビジネスホテルが多いですが、現在も簡易宿泊所として残っているところもあるようです。
かつての労働者向けの木賃宿としてではなく西成や山谷同様に生活保護受給者や高齢者向けの簡易宿泊所なのでしょう。
菊川駅を越えて東の方へ。大横川を渡った先は住吉です。現在は江東区住吉という地名ですが、かつては裏猿江町と呼ばれていました。小名木川沿いに猿江町があります。その北側で裏側だったから裏猿江町。「裏」はイメージが悪いので昭和9年に縁起の良い「吉」を入れ、住吉にしたんだそう。
こちらは「ツインタワーすみとし」という高層マンションで1994年に建てられました。この建物ができる前は住利合同住宅がありました。
1923年9月1日の関東大震災、江東区住吉のある深川区の震災被害は甚大で、90%が焼失、家屋は29万棟が全焼または全壊しました。当時スラムだった裏猿江町に不良住宅改良事業として同潤会が建てたのが住利合同住宅でした。
このあたりも高橋ドヤ街から続く細民窟だったようです。
でも今では住みやすい場所です。マンション前には商店街があります。
この手の商店街はシャッター街化しますがこちらはちゃんと営業しているようです。
住吉は錦糸町まで歩いて行ける距離です。そのため錦糸町のデパートでも買い物出来ます。かといって錦糸町のように歓楽街ではないので住みやすいのでしょう。
まさに住むのに吉で住吉。
かつてスラム街だったとしてもこのように街は変化します。森下も同じように住みやすい街に変わりました。かつては治安が悪いエリアだったのでしょうが今では錦糸町の方が治安が悪いです。東京23区内で利便性の高い立地なので家賃は高い地域なんでしょうが住むのはよさそうな場所です。
でも私は治安の悪い錦糸町の街が大好きです。
だって森下も住吉もロシアンパブがありません。