【板橋宿】板橋のその先、殺人村と呼ばれた宿場町「岩の坂」
東京二十三区で一番行かない場所、板橋区。今日は板橋駅に来ています。
とはいっても板橋駅の東側は板橋区ではなく北区。ここは板橋区の端っこのようです。今日はここより板橋本町の方まで散歩します。
この駅で降りるのは初めて。板橋駅の東口を出たところには近藤勇の墓があります。
こちらのお墓は永倉新八が発起人となり墓を建てたんだとか。
ちなみに近藤勇の墓は京都の壬生塚にもあるし、会津若松の天寧寺にもあるし、米沢市の高国寺にもあるし、三鷹の龍源寺にもあります。
死体が一つじゃ足りない!こちらはどの近藤勇でしょうか。
どうやらここで斬首されて首は京都まで運んで晒し首にしたそうです。胴体はここに埋められたそうですがその後掘り起こされ別の場所に埋葬したとかしていないとか。土方歳三の墓もいくつかあるようですね。新選組は歴史好きの人に人気のようで、ここも推しスポットになっているようです。
板橋駅の北側には旧中山道が走っています。日本橋から約8kmのこの場所は江戸時代は宿場町として発展しました。
板橋宿と呼ばれていますが、これは通称名称で本来は平尾宿、仲宿、上宿の三つを合わせて板橋宿と呼んだそうです。
たしか調布のあたりも5つあわせて布田五宿と呼ばれていた宿場町がありました。
仲宿のあたりは商店が多く活気づいています。
どこの商店街も大型スーパーによって縮小していますが、個人商店がいっぱいある商店街って素敵ですよね。
味のある精米店だとおもったらカフェでした。精米店をリユースしているそうです。建物は有形文化財に指定されていました。
仲宿町内にあるお寺「文殊院」です。宿場町にあるお寺。
こちらには閻魔様が祀られています。
現代も変わりませんが街が発展すれば飲み屋ができ風俗ができます。江戸時代にも宿場町には男性のお世話をする人たちが多くいました。遊郭は華やかで艶やかなイメージがありますが、実際のところは人身売買で売られた女性たちがいる場所です。性奴隷と変わりありません。
遊女の平均寿命は25歳くらいだったと言われています。多くが性病や結核によって若いうちに亡くなったそうです。生きている間、苦界に立たされるだけでなく身寄りもなく下賤の身である遊女の末路は散々なものでした。
親兄弟がいるわけではないので弔ってもらえない。そのため死んだら投げ込まれるお寺が各所に存在しました。こちらの「文殊院」は板橋宿の投げ込み寺だったそうです。
投げ込み寺は浄土宗であることが多いですが文殊院は真言宗でした。
お墓自体は女郎屋の楼主によって建てられたようで、一種の福利厚生的なヤツでしょうか。
板橋宿のその手のお店は吉原に次ぐくらいの規模だったようです。江戸から8kmほど。1時間ちょっと歩けば行ける距離です。高く格式ばった吉原よりも、気軽に遊べる岡場所の方が人気があったのでしょうね。京都に行くために板橋宿に立ち寄るのではなく、ここまで遊びに来ていた人も多かったそうです。
板橋です。この石神井川に架かる橋が地名の由来なんだとか。日本橋だって水道橋だって橋の名前ですからね。サイズがちょっと小さい橋ですが、板橋区の名前の由来がこの橋なんです。
この橋を渡ると板橋宿の端にある宿場町「上宿」になります。
現在の地名は「本町」。緩やかな坂道となっており昔は「縁切坂」と呼ばれていました。
またその当時は日中でも樹木に覆われ薄暗かったことから「嫌な坂」とも言われていましたが、いつしか「岩の坂」に転じたそうです。
縁切坂の由来となった縁切榎です。榎(エノキ)が縁退き(エンノキ)に転じて縁を切るものとされたようです。
嫁入りの際にこの前を通ると縁が切れるという言い伝えがあるそうです。しかしここは中山道で江戸と京を結ぶ主要道路です。そのため縁切榎の前を通りたくない人のためにう回路も用意されていたんだとか。今では自由恋愛ですが江戸時代は好きでもない人と一緒にならなければならない人もいたのでしょう。「板橋へ三行半の礼参り」なんていう川柳もあるくらいです。自力でどうにかできないとなると神頼みしか方法はないんだと思います。
現代ではそういった結婚はなくなりましたが、それ以外にも縁を切りたいって人は多くいるのでしょう。家族は法律上は縁を切ることができません。だからこそ縁を切りたいのです。実の親が毒親だった、子供のころ虐待されたって人もいるのでしょう。そういう人がここに願いを書くのかもしれません。
絵馬は隣の蕎麦屋で販売されています。絵馬に願い事を書くのは決意表明でもあります。自分の意志を他者に表明することでそれを叶えようと努力するためでもあります。そのため人に見えるように書かなければ効果がないとも言われています。
しかし、「大学合格!」とか「健康第一!」とかそういうのではなく「夫と別れたい」とか「愛人を解消したい」とかドロドロしているのも含まれるわけです。
当然プライバシー保護はしないとダメですよね。
先の仲宿と比べるとこのあたりは静かな街となっています。
江戸から京に向かう際、東海道ルートと中山道ルートがありました。
東海道だと京都三条大橋まで492kmあります。
中山道だと532kmあります。距離は40km以上長く、山の中なので険しい道でしたが、増水で川を渡れない日が何日も続くことがある東海道よりも、険しいけど日程通りに行ける中山道も人気ルートだったそうです。そのため岩の坂も宿場町として栄えていたんだとか。しかしそれは江戸時代の話。近代となり移動手段が徒歩から鉄道に変わっていく過程で、この街は困窮していったそうです。
明治となり都市部は近代化、鉄道が敷かれて行きました。このあたりも鉄道を敷く予定だったそうですが、その当時は蒸気機関車で列車が通れば黒い粉塵をまいていました。当然住環境として好ましくありません。そんなわけで反対運動もあったそうです。反対運動が功を奏したのかこの付近には鉄道がとおらず、ここから東に2km離れた赤羽あたりに鉄道が敷かれたそうです。
人が往来するから宿場町として栄えていたわけです。移動手段が徒歩から鉄道に変われば人は駅の方に集まります。岩の坂は人が来ない宿場町になってしまったそうです。これまで旅人相手にしていた商売が旅人が来ないため立ち行かなくなる。収入源が絶たれた状態になってしまいました。地方の観光地が中国人観光客向けに切り替えたもののコロナで中国人が来なくなってしまったのと同じような感じでしょうか。しかもそれが町全体という状態。結果的に岩の坂は明治に入りスラム街に発展していったそうです。
生活をするために盗みや強盗などを繰りかえしていた人もいたようで、このあたりには夜盗もいたんだとか。現在この地域に交番がありますが、これはその当時の名残なんだそうです。
金になることは何でもやった。盗みだけでなく人殺しもしていたんだとか。1930年に「岩の坂もらい子殺し事件」という殺人事件が起きています。
子供は宝である。戦前日本では中絶は違法でした。
妊娠すれば産まなければならない。例えその子供が望まれない子供だったとしてもです。今であれば避妊具もあるし避妊薬もある。妊娠しても一定期間内であれば中絶ができます。そのため望まない子供は生まれてきません。例えば愛人との間にできた子供でも浮気相手との間にできた子供でも、中絶することでなかったことにできるわけです。しかし戦前はもしそのような子供ができた場合でも産まなければなりません。そのため父親がいない子供、妾の子供という人たちが多くいました。
しかし人を育てるというのはそれなりのお金が必要です。望んで生まれた子であれば目に入れても痛くないでしょうが、望まない子供を養うのは難しいです。
子供を捨てることもできない、でも育てることもできない。そういった悩みを抱える家庭は一定数いたそうです。
「貰い子アンリミテッド!養育費払えば子供貰い受けます!」
こんな広告を見た悩める人たちは、それを求めたのでしょう。ここ岩の坂では望まれずに生まれた子供を養育費をもらうことで受け入れたそうです。なんか可哀そうな子供に愛の手をのばしている感がしますが実際はそうではなく、貰った子供を短期間で殺していたそうです。
死んでしまえば養育費は丸儲け。それを繰りかえしていたんだとか。事件で判明したのは1年間で50余人の子供が亡くなっていたそうです。判明した人数であり実際のところはもっと多かったのでしょう。犯人は一人ではなく複数人いたそうで、この岩の坂はそういったところだったようです。
この手の貰い子殺人事件は岩の坂だけでなく色々なところであった事件のようです。昭和のはじめころのお話です。まだ医療技術は発展途上の段階です。新生児が栄養失調や病気、事故で死亡するケースというのは結構多くあったころの話です。子供の死というのは日常的にあり、完全犯罪も多くあったのでしょう。
今は普通の街並みになっています。いつしかの宿場町の雰囲気はなく、また貧民窟だったというのも嘘のようです。仲町のあたりにはお店もあるし、住み心地の良い地域ではないでしょうか。
現在は岩の坂という名称はなく、ここは坂町商店会になっています。ネットで「岩の坂」と検索をかければその事件のことがかかれた記事が複数ヒットします。過去の事件だとはいえ子供殺しという内容だけに消したい過去なのでしょうね。
今から90年も前のできごと。でも90年前はそれが当然のように行われていたんですよね。感慨深いものがあります。
岩の坂は今はごく普通の住宅街。もう貧民窟とは縁を切ったようです。