香港大学のそば香港にあった日本の遊郭「石塘咀遊郭」
こちらは煲仔飯(ボウジャイファン)という炊き込みご飯です。香港名物の土鍋ご飯で香港人は冬に食べるんだそう。醤油とオイスターソースで味付けされた牛ひき肉に卵と米を混ぜ合わせて食べる。しぐれ煮っぽい味なので日本人の舌に合う味付け。値段はおよそ2000円。日本人の懐事情に合わない金額。香港は物価が高くそして円安の時だったため安い定食屋でも1品700円が最低ライン。普通の定食が1000円くらいでしょうか。チェーン店でも高く感じてしまいます。歓楽街の中心、観光客が多く集まる地域であれば当然高くなるわけでこのような料理を食べるのに2000円ほどかかります。
本日は香港島の北側、上環のあたりに来ています。このあたりはイギリスが統治していたころの香港らしさが残る地域です。大通りには二階建ての路面電車が走っており香港っぽい雰囲気が味わえます。
香港には多くの路地があり、その中で最も古いのが水坑口街ってところです。英語表記はPossession Street、和訳すると占領街って意味で、ここは1841年にイギリス海軍が最初に到着した場所です。香港が植民地となったすごい重要な場所です。本日こちらに来たのはこの界隈に遊郭があったからです。
ぜんぜんすごい重要じゃない。
南京条約が結ばれイギリスが統治し始めたのはアヘン戦争後の1842年。香港には多数の色街ができたそうです。香港島の北側、現在のセントラルのあたり、今は飲み屋街となっていますが180年前は色街でした。セントラル以外にも色街があったのですが売春窟が点在するのを良しとしなかったのでしょうか。その後一カ所にまとめられました。それがここ水坑口街です。
しかし1904年に売春宿で火災。これで香港に売春窟がなくなると思ったのですが当時の香港総督が「じゃあ移せばよんじゃね?」って継続を指示したことで石塘咀に移したそうです。風俗街が一カ所にあるとその街が荒みます。私娼窟の移設は地元の人にとって願いでした。私娼窟が遠くに移設されれば街に平穏が訪れ 静かに過ごせるようになります。石塘咀は水坑口街から歩いて数分のところ。
そこまで離れていない。
石塘咀は地名の通りもともとは採石場だったようです。良質な花崗岩が豊富なため石材労働者が集まったようです。しかし18世紀初頭には採掘の限度に達していたのでしょうか。イギリス統治時には採石場の役割を終え人気の少ない集落になっていたそうです。
比較的近くて人口も少ない場所に色街をつくるのは最適だったのでしょう。石塘咀にはかなり大きな色街ができたそうで数百の売春宿ができ2000人以上の娼妓がいたそうです。当時の香港の人口は50万人に満たない人口でしたが、色街に関する仕事に従事していたのは5万人。つまり1割近くの人がその手の仕事に従事していたってことです。
こちらは香港大学です。
石塘咀の近くにある同校は1887年に創立され1911年に大学がこちらに設置されました。世界で35番目のランクが高い大学であり台湾を作った孫文の卒業校です。孫文26歳の時。
孫文、絶対私娼窟通ってるはず。
このように香港大学は色街のそばにあったのです。
大学のそばに色街があったんじゃ勉強が捗らなくなる。
東京大学も近くに根津遊廓があり、学生が入り浸っており勉学に集中できないってことで洲崎へ移設することになりましたが、香港大学も同じ悩みを抱えていたようで移設の話が持ち上がりました。
でも香港大学、さすが香港最高学府だけあります。
香港大学「移転、ダイジョブじゃね?」
そうなんです。勉強するやつは遊郭がそばにあったとしても勉学に励むし、勉強しないやつは遊郭がそばになくても遠征するだけなんです。要はやる気の問題。勉強ができないのを環境のせいにするのは二流のやることなんです。
ってことで色街も大学も移設することなく共存って形を選びました。かたや東京大学は遊郭を移設したのにも関わらず学生はカフェーにはまり勉学を疎かにしたのです。これは香港大学の方が一枚上手だったってことですよね。
でもたぶん、先生通ってたはずです。
学生は勉学に励まなければならないけど、教員は福利厚生が必要です。色街は福利厚生の権化。石東咀のあった色街は香港大学の発展に貢献したはずです。
このように色街に通う大人たちが身体を張って守ったのですが1935年に韓国政府はイギリスの法律に従って売春を禁止することにしました。
これは鬼畜の所業。
色街によって治安を維持していたのにキリスト教の価値観を勝手に持ち込んで廃止にするイギリス人は鬼畜生のほかならない。鬼畜米英って言われるだけあります。
ようは鶴の一声で香港にあった私娼窟は解体となってしまったのです。その当時人口の一割が性風俗関連業に従事していたため反発もあったのでしょうがお上のいうことを聞かなければならないのはいつの時代も変わりありません。そのため石塘咀にあった色街は消えてなくなりました。
でもエロの力は世界的に偉大なり。
1941年12月、大日本帝国が香港を占領しました。そして日本人総督は言いました。
日本人総督「売春は合法にすべきである」
日本人、戦前からマジでヤバイ。
国造りはまず風俗街から。
風俗あれば人が集まるやろの精神。まぁ実際のところそれで潤っているんで風俗街を作るのは間違いないのでしょう。
一度衰退した私娼窟を遊郭として再開させました。さらにはすべての歓楽街を石東咀に移設するように命を下しました。その結果500軒以上の公認の売春宿ができたそうです。
つまりここは日本人が作った遊郭があったのです。まさか日本国外で遊郭跡地に来れるとは思いませんでした。
一つの亜細亜 共存共栄 欧米からの解放。
植民地化されていたアジアを欧米から解放し大東亜共栄圏を作る目的のため1941年、日本は宣戦布告し太平洋戦争が始まりました。イギリス軍の要衝だった香港を制圧するのは日本軍にとって重要でした。開戦後すぐに香港攻略作戦を実行し一か月足らずで香港を解放しました。
大東亜戦争でアジア解放を目指した日本。イギリス統治時代よりも多くの売春宿を作りました。やはり日本人のエロパワーは素晴らしいです。売春が禁止されてから6年間、現地の人は辛い思いをしたのでしょう。でも日本人が助けてくれたんです。これで遊郭遊びができるんです。
日本人総督「いや、遊廓利用できるの、日本人だけだから。」
これは日本の方が鬼畜。
ほぼほぼ言ってることはジャイアンのソレ。風俗街を作っておいて現地民が利用できないって蛇の生殺し状態じゃないですか!日本はアジアを欧米から解放し新亜細亜を作るという名目で戦争を始めたのですが、全然解放してくれないし禁止されていた方が全然マシでした。これは香港人が日本に対して賠償を求めても問題ない事案です。
当時の香港の人は風俗店があるのを横目に見ながら我慢していたんでしょうね。
そんな我慢していた町がこちらです。
戦後再度イギリス領になってからは遊郭はなくなりかつて売春宿が軒を連ねていたところは、普通の街並みになりました。もうここには、色街も遊郭もありません。
学生街の石塘咀。学生にはそんな店は必要ないのです。
でも調べたところ、石東咀にも141があるっぽいです。141とはマンションタイプの風俗店で私娼のいる部屋のインターホンを押しその場で致すちょんの間スタイルの風俗店。まさに遊郭跡地ならでは!
でも外観から判断できないピンポンマンション。
これは片っ端からピンポンしなければ!
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