石堂橋の向こうにあったスラム街「修羅の国」福岡にある朝鮮集落
本日は福岡県の博多にいます。
こちらは御笠川にかかる石堂橋です。御笠川はかつて石堂川と呼ばれていたそうです。
近くには石堂大橋がありますが、本日はこちら側から向こうに渡ります。
ここには昔、関所があったようで川のこっち側は博多、向こう側は別の所だったようです。
橋を渡ったすぐの所に「濡衣塚」という史跡があります。どうやらこちらが濡れ衣を着せるって慣用句の語源となった場所のようです。
7世紀ごろ、佐野近世って人が妻と娘を連れて都からこの地に赴任してきたそうです。引越してすぐに妻は他界。近世は地元の女性と再婚しました。そして後妻との間に子供ができました。子供が二人もいて幸せな家庭が築けている状態でしたが自体は一転します。
継子よりも実子に愛情を注ぐってのは人間の本能なのでしょうか。お腹を痛めて産んだ子のほうがかわいいと言われるのはいつの世も同じで、後妻は実子に愛情を注ぐようになります。いつしか継子が邪魔な存在になり、後妻は継子殺害計画を思いつきます。
後妻は金で漁師を雇い、「継子が釣り衣を盗んだ」と吹聴します。そして実際に寝ている継子に濡れた衣を着せて動かぬ証拠を作りました。それを見た近世は怒り狂い、娘を処分することに。これが「濡れ衣を着せる」の語源となっているようです。
つまりこの土地に住んでる人はクズってことです。
また近くには「五人合葬之墓」というのもあります。
こちらは浄土真宗の松源寺にあります。ざっくりとした話は以下です。
1800年頃の出来事。その当時博多には芝居小屋があり大盛況だったそうです。そこに酔っぱらいの士が乱入し大暴れ、見かねた5人の客が士を滅多打ちにして川に投げ捨てたそうです。士はこの件で切腹となりましたが面目が立たないため犯人を捕まえなければなりません。石堂川を渡って逃げたって情報をもとに役人が千代にやってきて、五人を出さなければ村を焼き払うと言われました。
しかたなく村民を救うため関係ない五人が罪を被ることになりました。そして無実の罪で処刑され犯罪者だから葬式もなかったようです。
これが「寛政義民五人衆」のお話です。これも濡れ衣にちなんでますね。
つまりは博多の千代のあたりは「あらぬ疑いをかけられるような土地」ってことなのでしょう。
千代の最寄り駅は千代県庁口です。県庁口の名の通り近くには福岡県庁があります。また北側には九州大学病院があり医療や教育が充実していることから住みたい街として注目されている地域のようです。でもかつては治安の悪い街の代名詞とされていた地域なんだとか。
御笠川沿いにあるマンション。この付近には多くのマンションが建ってます。多摩川の河川敷集落、隅田川の路上生活者。川沿いには社会から漏れた人たちが集まるコミュニティができるもので、御笠川沿いにも終戦後にスラム街ができたそうです。
この付近は韓国料理や焼肉店が目立ちますが、終戦後に韓国人が多く住むエリアとなったようです。コリアタウンがここに形成されたのは山口県のコリアタウンと同じで、終戦後に母国に帰るため福岡に集まったのでしょう。しかし済州島虐殺事件が起こったことで祖国に帰れなくなってしまったのでしょう。今でいう難民キャンプ地のような場所でした。川沿いに違法建築で建てられたバラックが軒を連ねていたそうです。このあたりはかなり大きなスラム街でした。朝鮮人だけでなく引揚者も多く住んでいたのでしょう。博多港は引揚者が140万人近くいたようで多くの人が川沿いに住んでいたようです。敗戦によって食糧もままならない日々だったので当然治安も悪かったようです。そんな大規模スラムのあった千代ですが、博多の中心に近く利便性の良い場所、またスラム浄化を目指したかったのでしょう。景観や防災の観点から1962年に行政が立ち退くように指示をだしたそうです。立ち退き命令といっても追い出すわけではなくバラックに住む人たちは住居を与えました。
こちらは2007年に建て替えられた浜松住宅ですが、以前は在日コリアンの人たちが移り住んだ市営住宅があったそうです。
こちらは空地になっていますが1962年に設立された朝鮮学校があったようです。学校が必要なほど多くの在日朝鮮・韓国人がこの界隈には住んでいたようです。現在福岡には北九州に三校、福岡市に一校だけ朝鮮学校があります。福岡市内にあるのは初等教育の学校で現在の生徒数はおよそ50人。一時は2万人いた在日朝鮮・韓国人も現在は6500人まで減少しています。帰化する人が多くなっているため朝鮮学校の継続も厳しくなっているのでしょう。
こちらは市営住宅近くにあるショッピングモール「博多せんしょう」です。かつては大津町商店街と呼ばれ、戦後の闇市にルーツがあるそうです。モール内には韓国食材を扱う店もあります。
町内にはホルモン屋が目立ちますが、千代がコリアタウンであり食肉が手に入りやすい環境だったからでしょう。
隣り町の堅粕には1910年に開設された屠畜場があったそうです。1959年に廃止されますが明治後期から戦後まで福岡の台所でした。
博多名物のもつ鍋。
冷蔵技術が低い時代は捨てられていましたが安価だけど栄養価の高い臓物は収入の少ない人にとって最高のおかずです。戦後の福岡で出来たそうなので、千代が発祥の地かもしれませんね。それとこの地域には食肉が出回る場所でもあったようです。
そもそもこの付近は江戸の頃は牛馬解体を行う地域でした。
こちらには創業200年の太鼓店がありますが元々このあたりは皮革産業が盛んだったようです。川沿いで海も近いためここより船便で大坂まで皮革を輸送していたそうです。輸送先は大坂の渡辺村、現在の芦原橋の皮革産業地に持っていっていました。
江戸時代のころは身分差別で様々な規制がされていたのでしょうが、商才があったのか村は裕福だったようです。しかし裕福だったのは皮革製造の利権があったからで、明治になって利権を失うことで治安が悪くなっていったのかもしれませんね。
このあたりは高度経済成長期の都市計画から漏れた地域です。私は5年前にこの地に訪れています。その際はまだ古い建物が残っていましたが現在は更地となっていました。
かつては治安の悪い場所の代名詞だった千代。現在は博多中心地に近く利便性の良い場所となっています。
福岡はロケットランチャーがあったり、発砲事件があったりと、北斗の拳顔負けのイメージでしたが、少し見当違いでした。てっきりモヒカンで肩パッドのバイク兄ちゃんがいるような場所だと思っていたのですが、違うようです。
ただ、このあたりの家の玄関を見ると「千代流」っていう札が貼ってある家が多くあります。これはヤバそうな集団がいそうな感じ。なんか街の雰囲気も世紀末な感じがするし、てめえらに今日を生きる資格はねぇって言われそうだし、邪魔するやつは指先一つでダウンされそうな感じ。これはもう新しい流派。一子相伝のやつに違いない。
でもヤバくないんです。
これは「北斗神拳」とかの流派ではなく町の集合体を「流(ながれ)」と呼ぶようで「千代流(りゅう)」ではなく「千代流(ながれ)」と読むそうです。つまり何も危険はないです。
あらぬ疑いをかけてしまいましたが博多の千代はなんの問題もありません。空港も近いし便利なんですよね。このあたりに住むのはよさそうです。