戦後のドサクサで出来た細民窟 安倍川河川敷のバラック街
こちらは静岡市内を流れる安倍川です。安倍川は暴れ川だったようですが徳川家康が流路の大改修を行い氾濫し辛い川となったようです。しかし江戸時代の頃は都市防衛の関係で橋が架けられず渡るには渡し舟か川越人夫を利用しなければならなかったそうです。そのため水かさが増すと通行できない日が続いたんだとか。
でも通行できなくなっても安心です。府中宿側には500m手前に遊郭がありました。雨が降ると遊女屋が儲かる。ちゃんと集客できるシステムがその当時はあったようです。
こちらは安倍川緑地田町親水公園があります。安倍川沿いの河川敷でかなり広く野球場やゴルフ場、サッカーコート、ラグビー場もあります。
景色がキレイです。
一般的に河川敷はテントの設置はできませんが、ここではデイキャンプができるようになっています。比較的水の流れが緩やかな安倍川。過ごしやすい環境なのでしょう。そしてそれは今に始まったことではなく、かつては河川敷にテントではなく家が建っていました。
ここには違法建築で建てられた家が建ち並ぶ400世帯以上が住むスラム街があったそうです。
以前といっても時期は今から70年ほど前の話。
静岡は1945年6月19日に空襲被害を受けています。静岡市街地は破壊され、2000人以上の死者がでたそうです。そして同年8月、日本は戦争に負けました。家を無くした人、家族を亡くした人、また大陸からの引揚者で街はごった返していました。住まいもない人は河川敷に自作小屋を建てて住みだしたのでしょう。戦後、安部川にはバラック街ができました。
河川敷が不法占拠されるのはこの当時よくあることでしたが戦後の混乱期、国や自治体がそれを管理できる状況ではなかったのでしょう。そのまま占有が放置されます。状況が変わるのは1964年。新河川法が制定されました。旧河川法では河川管理者は地方自治体だったのですが、改正により一級河川は国が管理するようになりました。安倍川は一級河川に指定されます。
新河川法では「河川敷を占有しようとする者は河川管理者の許可を得なければならない。許可が得られていなければ除去する」となりました。
河川敷にある建物は許可を得てなく、時効取得もしていませんでした。つまり、ここに住む人たちは強制的に追い出される形となりました。
1965年、静岡県は河川敷に住む人たちに対し立ち退きを要求します。これにより立ち退いた人もいたのでしょうが残る人もいました。そのため1966年に河川整備を名目として対策が提示されました。ざっくり言えば不法占拠している人たちに補償金や土地を与えるといった内容です。要は川崎のTD4であった事例と一緒。
国の土地を返す県としては不法占拠のまま返すわけにはいかないと判断したのでしょう。
川はキレイにして返す。
それに則り不法占拠している人に代替地を与えたようです。
その当時河川敷に住んでいたのは400世帯。2割程度がバタヤと呼ばれる廃品回収業に従事する人でしたが中には河川敷内で商店を営業していた人もいたそうです。
終戦から10年経過していますが、同地区に住んでいた4割が5年未満しか住んでいなかったようです。長く居住できなかったのは新天地に行ったのか、それとも新天地に逝ったのか。
たまたま運よく安倍川のバタヤ部落に住んだばかりの人もいたのかもしれませんが、移住させなければ河川整備事業が始められません。追い出すために市は補償金と住居を用意したのでしょう。
用意したのは300世帯の市営住宅。また住宅用地や事業用地も用意しました。
安倍川緑地田町親水公園の近くには民団施設があります。河川敷の不法占拠と言えば在日朝鮮人。戦前は同じ国民だったのに戦後は外国人とつまはじきにされた人たちです。部屋を借りることもできない、仕事もできない彼らには河川敷に住むしかなかったのでしょう。安倍川のバタヤ部落には在日朝鮮韓国人がいました。400世帯のうち、20世帯程度。
そこまで多くない。
日本の在日朝鮮人の割合は0.5%。その10倍なので多い感じがしますがコリアンタウンと呼べるほどではないですね。ちなみに川崎にあったTD4は100%外国でした。
移設用の市営住宅ができたのは1969年以降。河川敷に500軒ほどあった不法住宅は4年で200軒程度に減り、10年で150軒まで減らせました。居住者も手厚いサポートがあったからか新たな住居に移ることができ、河川敷の整備事業ができるようになったようです。
安倍川の北側、こちらは美川町にある市営伝馬町新田改良住宅です。1969年に建てられた市営住宅。河川敷居住者の移設先となった場所です。こちらの住宅は85部屋しかありません。当初300世帯の住居を用意したってことなので、ここ以外にも移り住んだ住居があるのでしょう。
町の作りが少し特殊な構造で美川町は堤防に囲まれています。市営住宅の東側にも堤防があるのですが、おそらくこれは旧堤防だったところ。つまりもともと河川敷だったところを整備してつくった街なのでしょう。
一段低いため高台からは二階にアクセスができるようになっています。耐震補強などをしていますが築50年なのでそろそろ建て替え時になるのではないでしょうか。
こちらには教会があります。1985年からある教会で牧師は在日韓国人二世の人のようです。韓国のクリスチャンの割合は三割ほどいるようです。このあたりに在日韓国朝鮮人が多くいるから教会があるのでしょうか。
町内には焼肉店があります。町内にある飲食店は焼肉店と中華料理店だけ。あとは韓国食材を扱う商店があります。
結構コリア感強めの街。
これに関しては差別によるものなのでしょう。働きたくても雇ってくれない状況なら、自発的に仕事をするしかありません。ユダヤ人に金融屋が多いように、在日韓国人の仕事も日本人がやらない仕事だったのでしょう。
町内には建設会社、リサイクル業者、廃棄物処理業者など、なんとなく川崎に似た雰囲気の業者が多く集まっています。これは川崎とほぼ一緒。多摩川沿いと安倍川沿いの違いだけ。
でも違いはそれだけではないようです。
河川敷整備のために河川敷居住者に手厚い補償をした川崎と静岡。似たような対策をしていますが貧困者の割合は川崎が多めです。
厚生労働省の調査では神奈川県は大阪、東京に次いで3番目にホームレスが多い地域。そして大阪市、東京23区、横浜市の次に川崎市はホームレスが多いです。川崎のホームレスの数は132人。この数値はまやかしで目に見えない準ホームレスが多くおり、実態数は10倍以上いると思ってよいでしょう。
静岡市内のホームレスの数は6人なんだとか。もちろんこの数値が正しいとは思えませんが、実際に街中でホームレスっぽい人はほぼ見かけませんでした(見かけてはいた)。比較的温暖な地域の静岡。河川敷も広いし住みやすい環境が揃っていますが、福祉がちゃんと行き届いているのでしょうね。
静岡市と川崎市、同じ政令指定都市で似たようなホームレス対策を講じていますが雲泥の差があるようです。