飯田の町は女の町 令和最新版二本松遊郭を探せ!
本日は飯田市に来ております。
こちらはJR飯田線の飯田駅です。利用者は一日800人程度で地方の駅といった感じ。駅舎の屋根が赤いのは名物のリンゴをイメージしたもののようです。
おそらく飯田市で一番栄えているところが飯田駅の東側なのでしょう。飯田市は県内で五番目に人口が多い都市ですが、長野市や松本市と比べると静かな街並み。まぁ車社会なのでこうなるのも仕方ないでしょう。
飯田市は長野といっても端っこです。
飯田市のある場所は長野でも南側の方。愛知に近いため文化も愛知寄りなんだとか。そして県南なので当然暖かいんだそう。私は寒がりなので暖かいのはうれしいですね。ちなみに1月の平均最低気温は-3.6度。
ぜんぜん暖かくない。
でも長野の中では比較的暖かい地域なんでしょうね。ちなみに夏場はしばしば猛暑日となるそうです。ある意味試される大地。
本日飯田市に立ち寄ったのは遊郭があるため。
飯田駅の近くには飯田城がありました。お城があった場所には現在長姫神社があります。同社のご祭神は「ご三霊さま」と言われ堀秀政公、堀親良公、堀親昌公がまつられています。飯田城は徳川幕府の時に堀家が城主となっていたため廃藩に伴い三霊神をまつったんだとか。ご利益は五穀豊穣、無病息災など。
このあとCR米米CLUB大収穫祭を打ちに行きます。
このように飯田は城下町がありました。飯田は中山道沿いではありませんが、愛知から内陸の塩尻まで塩を運ぶ三州街道沿いにあったため城下町は宿場として栄えたそうです。栄えていたのであれば当然その手の店もあったのでしょう。明治以降、飯田には遊郭ができました。
1882年に上田市二本松に遊郭設置が許され12軒の妓楼ができたそうです。1918年ころには遊女が130人を超えていたんだとか。つまりかなり大人気スポットだったようです。
当時の飯田の人口は2万人程度。それにもかかわらず公娼私娼合わせて500人近くいた飯田の色街。2万人のうち半分が女性と考えた場合、人口の5%が商売女だったってことです。さらに芸妓もいたわけですからその辺に歩いている女、大体夜の仕事している人だったようで「飯田の町は女の町」と言われていたんだそう。しかも阿部定も20歳の頃に飯田の三河屋って店で働いていたそうです。
飯田の人、ギリちんこ切られなかった。
飯田遊郭として設置されましたが入り口に二本の松の木があったことから二本松遊郭と呼ばれたそうです。現在の町名も二本松のまま。でも入り口には松はなくしだれ桜と紅葉の木があります。
当時の二本松はこちらでしょうか。なんとなく松っぽい切り株が残っています。位置的に遊郭の入り口っぽいし。
遊郭跡地の脇には天満天神社があります。創建時期は不明。とくに遊郭とは関係ない神社のようです。
現在は仕出し屋が一軒あるもののアパートや一軒家がある普通の住宅街となっています。遊郭があった場所には旅館や飲み屋が残るもんですが売春防止法施行まで色街として生き続けるも中心地からも駅からも遠い二本松はその後普通の住宅街になりました。
宿場町だったところに出来た遊郭、戦前は130人を超える遊女がいたそうですが、飯田には500人の商売女がいたそうです。数字が全然合わないんですが残りは私娼だったようです。遊郭のそばに私娼窟ができるのは当然のこと。歩いて数分のところに私娼窟がありました。カフェーや小料理屋だったのでしょうか。現代風に言えば本サロ、ちょんの間といった業態。お酒を飲んでいたら急に恋に落ちちゃうヤツ。格式高い妓楼より安価で遊べる私娼が好まれたのでしょう。
私娼窟があったのはくつわ小路ってところ。「くるわ」ではなく「くつわ」。馬の手綱をつけるための馬具のことを「くつわ」というそうです。くつわ小路があるところの住所は馬場町。練習場の馬場があったためこのように呼ばれているそうで、くつわ通りもそれが由来なのでしょう。江戸時代は馬に乗るために通る道でしたが、明治以降は女に乗るために通う道でした。
戦前に流行っていた私娼窟。戦後は青線街として続くもこの街も売春防止法により消えてなくなりました。飲み屋の看板はありますがこれはその当時の名残りでしょうか。
建物はだいぶ朽ちていますがこれらは戦後に建てられたもののようです。飯田市は1947年に大規模な火災に見舞われており中心市街地の7割が焼失したそうです。くつわ小路は中心地から少し離れた場所にありますが、被害が全くなかったわけではないのでしょう。つまり1947年以降の建物なのでしょう。それでも築80年。かなり年季が入っています。
飯田には遊郭や私娼窟がありましたが、それらは全て壊滅。風俗街もできなかったようです。あるのは飲み屋街でしょうか。せっかくなんで飯田の飲み屋街を巡ってみます。
飲み屋街といっても一カ所にまとまってあるわけではありません。一番多いのが中央交差点のあたりでしょうか。
こちらには飯田センゲキシネマズという映画館があります。地方の映画館と言ったらショッピングモールに併設されている映画館ばかりですが、この手の映画館が飯田には残っているようです。飯田は江戸の頃から人形芝居が盛んだった地域でその名残で町内には4軒の映画館があったようです。1921年には同地に劇場ができ、現在の建物は1951年に出来たそうです。この映画館界隈が飲み屋が多いところになっています。
セブと書かれた看板。おそらくセブ島をイメージしているのでしょう。こちらはフィリピンパブで間違いなさそう。
ナイトパブと書かれた看板。椰子の絵が描かれてます。南国っぽいイメージ。おそらくこれもフィリピン。なんとなくフィリピン国旗っぽい感じがします。
これもフィリピン。長野県は長野市のある東側と松本市のある西側で文化が異なります。長野は険しい山に囲まれているため物理的に交流が少なかったのも理由なのでしょう。また在日外国人も違いがあり、長野市側はタイ人が多かったのに対し松本市側はフィリピンが多め。南信地域はピーナ好きが多いようです。
飯田市は細い路地裏があるのが特徴です。わき道にそれるとこんな感じで細路地の中に飲食店の看板があるんです。雰囲気が良いですがこのような街並みが見れるのは飯田大火によるもので避難路を確保するため2メートルの路地を設置するようにしたんだとか。裏界線と呼ばれこのような細路地が複数点在します。路地裏にある隠れ家的飲み屋って素敵です。
こちらは栄小路。飲食街となっており居酒屋もあるしスナックもあります。どうやら飯田市は日本一の焼肉の街なんだとか。人口割合で一番焼肉店が多いところのようです。海から離れた飯田市でタンパク質を摂取するならば虫を食うか肉を喰うか。まさか虫を食べる民族なんて存在するはずがありません。そのため飯田市では肉を食べる文化が定着したようです。そして養蚕で蚕を飼い、羊毛生産で羊を飼っていたため副産物としてマトン肉も手に入った飯田では羊肉を食べる機会も多かったようです。また長野と言えば馬肉です。馬肉を扱う店が町内には複数あるようです。
せっかく飯田にいるんです。
飯田の名物食べたいじゃないですか!
ってことで食べに来ました。
焼肉の話散々しといておでん食べてます。どうやら飯田おでんってのもご当地ソウルフードなんだとか。ネギダレをつけて食べるのが飯田おでんの特徴。おでんと言えば練り物。でも飯田は海に面していない地域。海に面していないからこそ海産物が食べたくなるのでしょう。生魚ではなく保存がしやすい練り物が流行ったのも頷けます。練り物一切頼んでないけど。
この豆腐がめっちゃうまい。ネギダレと相性が良いです。
ついでにおたぐりを注文。おたぐりとは馬のホルモン煮込みです。馬の腸は長いため手繰り寄せるからおたぐりと呼ばれているんだとか。都内だと馬刺しは食べますが他の部位はあまり出回りません。
気になる焼肉店もあったんですが満席で入れませんでした。焼肉は次回飯田に来たときに食べます。
夜の飯田歓楽街です。比較的のみ歩いている人がいます。しかし飲み屋止まりで性風俗店はなさそうな感じがします。しかも駅界隈にはそっち系のホテルもありません。車社会のためデリバリーの店を利用するならば郊外に出るのでしょうね。もしくは県外まで足を延ばすのでしょうか。
現在飯田市は東京から直線で170kmの距離にあるのに直接行ける路線がないため電車で行く場合は豊橋経由で4時間以上かかるそうです。高速バスでも同じくらい時間がかかる辺鄙な場所です。中部の都市圏である名古屋からも2時間以上。まさに陸の孤島のような場所です。でもリニアが開通すれば駅は飯田市に出来ることが決まっており品川から46分で行けるようになるんだとか。名古屋までは24分。めちゃくちゃアクセスが良い場所になるようです。不便だった場所がかなり使い勝手の良い場所になるのでしょう。これは人口増加間違いなしです。しかし名古屋や東京に出やすくなれば飯田市民は外に出ることになるため、駅前の商店街は寂れていってしまうのでしょうね。リニアの駅ができたから風俗街を作りましょうとはならず、飯田のエロい大人たちは名古屋の納屋橋のM性感に行くのでしょう。