【遊郭死すともちょんの間死せず】板垣退助の愛した高知の遊郭「玉水新地」
本日は高知に来ました。
高知県に来るのは人生で三度目。香川や愛媛に行く機会はあるのですがそこから高知まで足を延ばすことはなく、「高知へ行く」って感じじゃなければ足を踏み入れない地域です。でも高知は飯もうまいしお遊びするところも多くあるって話です。そういうところ、色々回りたいですね。
高知市の中心ははりまや橋あたりで付近にはデパートや飲食街、飲み屋街があります。ビジネスホテルが多くある地域のため高知に旅行に来るならばこの付近に宿泊するのがよいでしょう。私もこの付近に宿をとりました。
中心地がこのあたりになったのは近代になってからではなく、400年前から中心地はこの辺りだったようです。
高知城の東側がはりまや橋付近となるのですが、この辺りはその当時「下町(しもまち)」と呼ばれていました。高知城の東側を下町、西側を上町と呼び、そこには町人や下級武士が住んでいたそうです。ちなみに坂本龍馬の誕生の地は上町にあり、龍馬は比較的裕福な家だったそうです。
このように高知城を中心に多くの人が住み、城下町は賑わっていたようですが、土佐には遊郭的なものがなかったそうです。
もちろんこれは表向きで実際はその手の店は存在したのでしょうが、藩政時代の土佐では芝居興行は禁止されていました。
娯楽の無い土佐。27歳の坂本龍馬だって遊びたい年頃です。そりゃ脱藩しますわ。このように芸者遊びができない土佐を見限った若者は多くいたのでしょう。また芸者遊びを土佐でするために大政奉還を目指した若者もいたはずです。明治になり禁制が解かれてすぐ、高知市内に上(カミ)の新地と下(シモ)の新地ができました。本日は上の新地に伺います。
こちらは上の新地と呼ばれていた玉水遊郭の近くにある上町五丁目駅です。
現在も「上町」の名称が残っているんですね。ここから歩いて数分のところに遊郭跡地があるようです。
入り口のところに来たのですがネコが大量にいます。このあたりを散策したら10匹ほどネコを確認しました。
こちらは思案橋です。長崎の丸山遊郭にも思案橋がありました。遊郭は外の世界と区別するため川で囲まれているところが多く、入り口にはこのような橋が架かっています。遊郭に行くべきか行かぬべきかをこの橋の手前で考えたんだとか。すでにこの橋の手前にいる時点で行くの確定してるんです。おそらくどの店に行くか、どの子にするか、オプションをどうするかを思案したんでしょうね。
大正15年に架設されているようですが、玉水遊郭ができたのは明治5年のようです。遊郭が設置された当時は思案しなかったんでしょうね。
こちらが玉水新地です。町内には旧松山街道が通っています。松山の名の通りこの道は愛媛県の松山まで続く道でかつては主要道路だったのでしょう。そんなところに遊郭ができれば繁盛したんでしょうね。でも今は普通の住宅街のような感じです。
玉水町の中心には用水路があり、北側と南側で高さが違います。用水路に架けられた橋はだいぶ年季が経っています。こういうところの用水路って暗渠化するのが一般的ですが、ここでは残してあるようです。
玉水町はこの用水路の水がキレイだったのが名前の由来なんだとか。実際にドブのような汚い用水路ではなくキレイな水が流れています。この景色も当時のままなのでしょう。
先の大戦で高知大空襲により市街地の大部分が焼夷弾により焦土と化し、建物は焼失したそうです。しかし玉水新地は中心地から近いもののたまたま空襲の被害が少なかったようで、現在も古い建物が残っています。そしてその中には「旅館」を称する怪しい店も存在します。
玉水新地は明治5年にできた遊里でした。
400年もの間、禁止されていた遊郭。いごっそうらはずっと悶々としていたわけです。解禁となれば皆が一斉にそこに行ったのでしょう。そんなわけで玉水新地は大盛況だったようです。芝居小屋ができ料理店ができ妓楼ができる。高知の一大歓楽街になりました。戦時中は他の遊郭同様に自粛していたのでしょうが、戦後は赤線街になりました。カフェーとか小料理屋とかがあったようですが、売春防止法により赤線の解体。赤線廃止後の歓楽街はソープ街になるのが一般的ですが、玉水新地はちょんの間街になったようで、それが今でも残っているそうです。
一見するとどこにでもある普通の住宅街ですが、旅館の看板を掲げているところが4軒あります。
日高、都、松乃家、さんごって店の名前。
こちらの旅館「都」は大分古いですが立派な建物です。立派な建物ですがこちらが所謂ちょんの間で、中で行われていることは旅館で休憩していたらたまたま仲居と恋に落ちちゃうやつです。
旅館で恋に落ちちゃう系の店は奈良の生駒新地がそうでしたが、生駒のは派遣型の仲居に対し玉水新地は常駐型の仲居のようです。信太山新地タイプのようですね。そもそも店舗数が4軒しかないところなので置屋システムではやっていけないのでしょう。
こちらは一見すると普通の住宅です。でも看板が出てるのでソレなんでしょうね。まだ午前中なので営業はしていません。
この辺りの店は正午過ぎにオープンして24時頃まで営業しているそうです。値段は一般的な店よりも少しばかり安いんだそう。値段と質は比例します。安いということはそれなりなのでしょうね。でも生き残ってるってことはそれなりにお客さんがくるのでしょう。
かつてはもっと店舗数があったのでしょう。脇にそれるとおそらくカフェーだったであろう建物があります。
こちらは玉水町の隣町、縄手町内にある路地です。スナックと居酒屋がある路地ですが営業しているかは不明です。玉水遊郭のおこぼれをもらう形でできた飲み屋街だったのでしょうか。今は利用者も減りかつての遊郭の雰囲気はなくなりました。
今のちょんの間とは違い、玉水新地にあった妓楼は社交場のようなところで銀座の高級クラブ的なところだったのでしょう。
土佐と言えば自由民権運動の発祥地。板垣退助も玉水新地に通っていたそうです。自由を意味するフリーダムやリバティ、そして人権という言葉が日本でも広まり、欧米の思想が文化人に広まりました。そのような話し合いを玉水新地の料亭で行っていたんだとか。
つまり玉水新地に残っている旅館らしきちょんの間に行けば、私も板垣退助になれる可能性が微粒子レベルで存在してるってわけです。
遊郭死すともちょんの間死せず。とはいってももうすでに危機的状況です。建物は古く結構傷んでいるところもあります。有形文化財のようにはならないのでしょうね。このまま朽ちていくのを待つだけです。のこり四軒しかない玉水新地のちょんの間。利用者も年々減少しています。おそらく今の形式で続けていくのは難しいのでしょうね。今の雰囲気を味わえるのは今だけです。
今後は普通の住宅街に変わっていってしまうのでしょう。日本の民主主義の基礎となった自由民権運動。それの発祥地と言っても間違いないこの場所。もうそれは跡形がなくなりつつあります。今であればまだ自由を手に入れられるかもしれません。
フリーで!