山林生活

おじろくおばさの制度があった南信の秘境「天龍村神原」

おじろくおばさの制度があった南信の秘境「天龍村神原」

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本日は長野の南側に来ております。このあたりは南信地方と呼ばれ諏訪、伊奈、飯田市とあとは町と村があるくらい。このあたりは山間で人口も少ない地域です。

実は私の祖母は南信にあった山本村出身(現在の飯田市山本)で私も幼少の頃に一度だけ訪れています。そのときはじめて鯉と馬と虫を食べました。鯉と馬と虫ってすげーゲテモノ感がしますが、この地域では貴重なたんぱく源だったのでしょう。

内陸の長野は海に面しておらず冷蔵設備のないころは海産物を口にする機会は少なかったため川魚や農耕馬、そして養蚕で使用した蚕をたんぱく源としていたのです。私が虫を食すことに対して抵抗がないのは南信の民の血が流れているからなのでしょう。

要は私もゲテモノハンター。

このあたりは高い山々に囲まれた険しい土地で農作物が育てづらい環境でした。祖母の話では戦時中の主食は芋とかぼちゃだったそうです。このように古くは厳しい環境に晒されていた地域だったようです。

山本村より40km南下したところにある天龍村があります。静岡と愛知の県境に位置し、静岡は浜松市に接しているので川の向こう側は天竜区です。政令指定都市の隣ですがそんな様子はなくド田舎って感じの場所。天龍村の人口は約1000人。高齢化率は60%で全国で2番目に高齢化が進む村です。
周りは800m級の山に囲まれており面積の9割以上が山林で耕地が少ない土地のようです。名産品はナス、柚子、お茶、栃の実、それに味噌。

腹の足しにならない!

あくまでも名物がそれってだけで馬肉も食べるし虫も食べる地域。ほかの虫を食べる長野と変わりありません。

こちらはJR東海飯田線の平岡駅です。天龍村には5つの駅がありますが、平岡駅は村一番の駅です。とは言っても車社会の天龍村。利用者は一日50人程度だし無人駅です。電車もラッシュ時に一時間一本しか走りません。そもそも天龍村と言っても駅があるのは天竜川の東側。川を渡った反対側も天龍村ですが、かつては違う村でした。

静岡の東側は関東の影響を受けやすい、静岡の西側は関西の影響を受けやすい。このように周りの風習によって町は変化します。他の地域の人が往来するから文化や風習が伝わる。つまり村に他の地域の人が来なければ独自の風習が出来上がるのです。
暴れ川の天竜川は気軽に渡れないし、周りは山に囲まれている地域。このように閉鎖的な環境だったためこのあたりには独自の文化や風習があるようで、かつて天龍村にはおじろく・おばさ制度ってのがあったそうです。

丁稚として家を出る、娘を遊郭に売り飛ばす。かつての日本は子供の人権はないに等しく、生きるかどうかは全て親の匙加減でした。安定した収入がない、また干ばつや天災などで収穫量が大幅に変わる農業を生業としていた村、そこに住む人の命は軽かったのでしょう。口減らしのために時には売られ、時には命を粗末にされたそうです。江戸時代であればこういったことはよくあった話なのでしょう。でもこの手の話は近代においてもあったようです。

子供を産めば豊かになる。種の保存のために人間は子供を産み育てる。人が増えれば国はどんどん豊かになっていくはずです。しかし現在の日本で子どもを産むのは容易ではなく、悪い言い方をすれば負債でしかありません。子どもを産めば家庭はひっ迫するため子どもを産まない家庭や一人っ子の家が増えています。養育にはお金がかかるのに収入が増えないんじゃいくら子育て支援を国がしても今の状況は打破できないでしょう。

今はこのように子供ができない問題がありますが、長野の南信では多産すぎる問題があったようです。

天竜川の東側、平岡駅がある地域はかつて平岡村と呼ばれていました。川の東側は神原村ってところで二つの村は1956年に合併しています。天竜川に橋が架けられたのは1955年。それまでは交流のない村同士でした。
山間にある神原村は東側は天竜川、西側に伊那街道が通っていますが峠を越えなければなりません。現在は橋もあるし国道418号線が通っているため行き来しやすくなったようですが当時はかなり厳しい道のりだったのでしょう。私が天龍村に訪れた時はちょうど崖崩れがあり国道418号線が通行止めでした。そのため迂回ルートを使ったのですが10分かからない道のりが30分以上山道を通らなければならない状態でした。昔は車がないわけですから隣の村まで行くのも大変な場所だったのでしょう。そのため神原村は人の往来する場所ではなく自給自足の生活をしていたのでしょう。
しかし自給自足をするにしても耕地が少なく9割以上が山林の神原村。当然そのような環境では多くの子供を養えるほど収穫の良い場所ではありませんでした。そのため神原村では独自の一人っ子政策「おじろく・おばさ制度」があったようです。
その制度は子供として育てるのは長男のみ。それ以下の子供はおじろく・おばさとしてムラ社会から隔離して家庭内の奴隷とする。このようにして労働力を確保しつつ最低限の出費だけで子どもを育てたそうです。
おじろく・おばさは人と接する機会がないため結婚もしないし子供出来ない。このように村全体で人口調整をしていたそうです。16世紀ごろにこの制度はでき、明治の初めころまで続いていたそうです。

村の制度ってことですが、単純に長男だけしか結婚ができない状態が続けば村の人口はどんどん減り、最終的にゼロになります。おそらくこの制度は地主や本家に限られていたのでしょう。

祖母から聞いた話ですが南信の地域では本家には離れがあるのが一般的だったようです。幽閉をするための座敷牢がその離れなんですが、裕福な家庭にはそのような建物があったそうです。精神病やハンセン病を患っている子供を私宅監置するために用意されている部屋ってことですが、私宅監置は1919年に廃止されています。もしかしたら精神病以外の人も幽閉されていたのかもしれません。おじろく・おばさ制度は神原村独自の制度ってことでしたがもしかしたら南信の地域では各村に似たような風習があったのかもしれませんね。

そもそも南信は子だくさんなんです。

田舎は娯楽がないため子だくさんになりやすいのが理由でしょうか。1932年に満州国建国以降、日本から開拓民と義勇軍を募ったそうですが、一番多かったのが長野県で、満州開拓民27万人のうち長野出身者は3万4千人もいたそうです。二番目に多いのが山形で1万3千人なので長野が突出しているのが分かります。そして長野の中でも南信出身者が8400人もいたそうで、当時の人口比で4.5%も満州に移り住んだそうです。

これだけ多くの人を満州に送った理由は単純に口減らしです。

長野は虫食う人たち。その理由は副業で養蚕をしていたから。
近代化の象徴として世界遺産に登録された富岡製糸場があるように明治期は絹の生産が盛んで農村部は比較的裕福だったそうです。しかし1929年に世界恐慌が始まり繭の単価が暴落、それにより長野の農家の生活は厳しくなりました。ちなみに祖母の兄弟は6人いるのですが、当時の南信地域はこれくらいが普通だったのでしょう。子どもが多く収入が減れば生活が出来ない。そのため長男以外は満州に渡ったのです。いわば昭和のおじろく・おばさ制度です。13年後の1945年、日本は敗戦。満州は消滅したわけですが、南信に戻ってきたのは4000人に減っていたそうです。

おじろくおばさは江戸時代の頃の話。あまり良い風習ではありませんが厳しい環境を生き抜くための知恵なのでしょう。閉鎖的な場所だから風習が残ってたんでしょうね。

こちらは天龍村神原の向方(むかがた)にある神社「天照皇大神宮」です。神社というより公民館っぽいところ。
神原村のあたりには坂部の冬祭りや大河内池大神社例祭って祭りがあり、霜月神楽という独自のお祭りがあるんだとか。旧暦の11月、新暦の1月初旬のお祭りで重要無形民俗文化財に指定されています。さすがは神を名に冠する村です。都内でも神事が見れますが地方の土着信仰を見てまわるのも楽しそうです。

こちらは天然温泉おきよめの湯です。村営の温泉施設でアルカリ質の温泉です。天龍村は浜松市の隣ですがかなり行きづらい場所。ある意味秘境温泉です。こちらで食事もできるようなので昼食をとりました。

信州サーモンが有名のようですが、馬刺しの定食を注文。どこ産の馬刺しか知りませんが美味しいです。

本来は神原の別の場所も見てまわりたかったのですが、土砂崩れで道が寸断されており、別の集落に行くのに1時間以上かかってしまいます。往復で二時間。現代ですら移動な大変な場所。そりゃ独自の文化ができても何ら不思議ではありません。

食糧不足を回避するため人口過多にならぬよう村の人口を調整していたおじろくおばさ制度。もうそのような風習はなくなり神原は普通のド田舎となっています。むしろ現在は人口が減少おり過疎化となっています。そのため産めよ殖やせよにシフトしたいのですが天龍村は高齢者率60%超えの限界集落。

勝手におじろくおばさ制度になってるんです。

まぁそんな感じで高齢者の多い天龍村ですが山に囲まれたこの場所も悪くないもんです。村にコンビニもなく江戸の頃から変わらず人の往来の少ない地域ですが秘境だからこそのんびり過ごせるところです。

リニアができれば東京から二時間で天龍村に行けるようになります。リニア新幹線はできるのに時間がかかりますが気軽に遊びに行けるようになるかもしれない天龍村。自然が豊かと言えば聞こえは良いですが野山と川があるだけの要は何もない村。でもそんな秘境に手軽に行けるのはいいですよね。

ちなみに最寄りの長野県駅は天龍村と同じ南信の飯田市にできるようです。東京から飯田までは現在4時間かかりますが40分程度に短縮されるそうです。飯田から平岡駅までは電車で一時間。平岡駅から向方へは公共交通機関がないので徒歩になります。

歩くと6時間なので合計7時間40分。

全然気軽に行けない!

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