夢の国のある浦安市には古くから柳町という夢の楽園があった
本日は千葉県浦安市に来ております。
こちらは東西線浦安駅です。同駅が開業したのは1969年。それまでは交通の便の悪いところで駅開業以前の交通手段は蒸気船が主でした。また1940年以前は東京から浦安に渡る橋はなく、浦安橋が架設される以前は渡し舟で渡っていたそうです。橋が架設され駅ができ、浦安駅の周りは住みやすい環境が整いました。東西線は大手町や九段下など東京の中心を通る利便性の良い路線です。都心に出やすいため浦安は東京のベッドタウンとなりました。
浦安と言えばやっぱりディズニーです。東京ディズニーランドが開園したのは1983年。ディズニー最寄りの舞浜駅が開業するのは1988年なので、それまでの最寄り駅はここ浦安駅でした。当時はここからバスでディズニーへ行ったんだそう。
ディズニーのあたりは1960年以降に出来た埋め立て地です。浦安市は75%は埋立地のようです。そういえば震災の時に液状化現象が起きていましたが、浦安市民の75%が海の中に住んでいる海洋生物なんです。
そもそも浦安は海と関係が深い場所です。
浦安は元々漁師町でした。
行徳のあたりは塩浜の地名が残っている通り江戸時代は塩田が広がっていました。塩の安定供給のため幕府主導で塩の生産をしていたそうです。国家事業のため実入りはよいですが浦安のあたりは江戸川の河口が近く淡水と海水が混ざるため塩の生産に適しませんでした。でも河口そばで浅瀬が多い浦安沖は魚介類が豊富でした。とくにディズニーのある舞浜辺りはもともと干潟が広がっておりハマグリやアサリがよく獲れたそうです。
現在も市内には蛤屋や釣り船屋があります。これらは浦安が漁師町だった名残りでしょう。しかし1960年以降に漁師町ではなくなりました。
水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく。高度経済成長期であった日本は1950年から70年代にかけて各地で公害が起きていました。そしてここ浦安も公害にあっています。現在も旧江戸川沿い、江戸川区東篠崎に王子製紙の工場がありますが、1958年に江戸川漁業被害による黒い水事件が起きてます。
ざっくりとした内容は工場から出た黒い廃液を江戸川に排水したことによる公害事件です。公害による人体被害の確認はできていませんが、この件で乱闘騒ぎとなり重傷者が35名も出ています。この事件により水質汚濁に関する法律ができたのですが、一度汚れてしまった水は元に戻りません。風評被害もあったのでしょう。事件以降浦安の漁業は衰退し、1962年には一部漁業権を放棄しました。これにより漁場だった浦安沖の埋め立て事業が始まりました。そして1971年4月、漁業権を全面放棄。浦安は漁師町ではなくなりネズミの国に変貌を遂げました。
かつては鉄道もなく橋もなかった浦安。でも海沿いで河口そばだったため水運は発展していたそうです。そして東京に一番近い浦安は房総半島で獲れた魚を都心に運ぶ中継地点でした。木更津で買いつけた魚を新川、小名木川を経由し都心に運ぶ仲卸業をしていた人もいたそうで稼ぎがよい人もいたのでしょう。稼ぎのよい人がいればそれに群がる夜の蝶も出てくるもの。市街地にはその手の店があったのでしょう。戦前は娼館が点在していたようです。
旧市街地、つまり浦安の埋め立てられていない25%の地域は浦安駅界隈で、堀江、猫実、当代島地区がそれにあたります。その怪しい娼館があったのもその界隈でした。
こちらは清瀧神社です。堀江地区にある神社で御祭神は大綿津見神。創建は1196年で本殿は1855年に再築されており、同社は浦安市の有形文化財となっています。浦安三社の一つで、残りの二つは当代島に稲荷神社、猫実に豊受神社があります。大綿津見神は海の神様。ってわけでこのあとCR新海物語を打ちに行きます。
清瀧神社の脇には旧浦安町役場跡碑があります。1895年に浦安村が誕生して以降、1974年までここが行政の中心地であり商業の中心地でもありました。
清瀧神社の門前、おそらく参道と思われる場所で現在はフラワー通りって名前がついています。かつての浦安の中心地でこの辺りには映画館もあったようです。東西線の開通とともに中心地は浦安駅前に移動し、駅から離れたこの付近は静かな街並みとなりました。
戦前は下世話な店も存在していたのでしょう。その当時の下世話な店と言えば小料理屋やカフェーといった店でしたが、浦安にあったのは「ごったく屋」と呼ばれていたそうです。
ピンサロを名古屋ではキャンパブと言ったりするように地域によって名称が変わることがあります。そんな感じで浦安にも独自の呼び方があったのでしょう。ごったく屋は現代でいえばNK流の本サロ。そういった店が市内に点在していたようです。
小田原も似たような感じでしたが漁師町ってのは大体こんな感じで性風俗の統制がとれていないものです。
でもそんな風紀が乱れた街だったのは戦前まで。戦後統制されます。
戦後市内に点在していた店は駅の北側、当代島一丁目あたり集まりました。「柳町」と呼ばれており戦後は赤線街となったようです。
こちらはさかえ通りです。かつては入り口に商店会のアーチがありましたが現在は撤去されています。
以前は浦安魚市場が通り挟んだ目の前にありましたが市場は2019年に閉鎖しスーパーマーケットになっています。スーパーの隣りの駐車場わきには海苔屋が残っています。こちらの店は市場があった名残りでしょう。
かつては漁師が行き交う場所で商店街は栄えたのでしょう。漁師が多かったからでしょうか。スナックなどの飲み屋がまだ残っているようです。まさに海の男のための街って感じ。でもかなり減ってしまっているようで一見すると普通の住宅街です。少し淋しい町並み。昔は飲み屋だけでなくそっち系の店もあったそうです。
こちらは現在住宅となっていますが、かつてここにはストリップ劇場がありました。今じゃストリップ劇場は絶滅危惧種1A類に該当する希少な施設ですが昭和の頃は比較的地域に密着してストリップ小屋があったようです。
そのストリップ劇場は1969年に浦安ヌード劇場として開業、84年にザ・浦安サスペンス劇場に名称を変更するも89年に閉館となりました。
浦安は高齢化率が17.5%と日本で一番低く若い世代が多い街です。ストリップは35年前に閉店しているのでこのことを知らない市民は結構多そうです。でも17.5%の一部の人は、通っていてもおかしくないでしょう。
このようにストリップ劇場があった浦安ですが、もっと過激な店もあったようです。その本丸はもう少し奥にありました。
当代島のこのあたりは戦前は田畑でしたが1949年以降に宅地開発されてこの付近に赤線街ができました。浦安も空襲被害に遭ったようですが、それよりも1949年の台風で堀江や猫実の当時街の中心地だった場所が甚大な被害にあったそうです。赤線街を移設したのは天災によるものだったのかもしれませんね。
このあたりに娼館が軒を連ね結構繁盛していたようです。仕出し屋や寿司屋があるのは色街だったころの名残りでしょうか。魚市場も近かったこの場所は日銭を稼いだ漁師が散在する場所だったのでしょうね。でも売春防止法施行後に赤線は廃業となりました。赤線の廃業は1958年。奇しくも黒い水事件と同じ年でした。
これは赤線が廃止となり漁師らのストレスがマックスだったに違いない。
赤線街跡地は風俗街となるか住宅地となるか。柳町は前者を選んだようです。ここには風俗店があったようです。
しかし赤線廃止当時は鉄道もなく蒸気船も廃止されていたため移動手段は自動車だけ。わざわざ交通の便の悪い浦安まで遊びに来る人は少なく、逆に浦安の漁師は外に遊びに行っていたんでしょう。そのため色街は衰退しました。唯一浦安トルコセンターってソープが昭和の終わりまで残っていましたがそれもなくなりました。赤線街だった柳町はごく普通の住宅地になっています。
浦安の駅前にはガールズバーなどはありますが、性風俗店はない模様。ラブホテルが近くにあるものの、利用者の多くはディズニー目当ての宿泊者なのでしょう。夢の国があるところには夢を壊す性風俗店は生き残れなかったようで、浦安は風俗過疎地となっています。やはりネズミの国のお膝元。同じランドでもソープランドは好まれなかったようです。
私は人魚姫よりも泡姫のほうが好きですが。