横田遊郭に裏町私娼窟の立ちんぼ「松本歓楽街」
本日は長野県松本市に来ております。
こちらは松本城です。松本城は現存天守の一つに数えられ国宝に指定されています。白と黒のコントラストが美しいです。
松本は長野の山奥のイメージがありますが松本城の城下町として栄えていたため市街は史跡も多く観光地となっています。日本人観光客よりも外国人観光客が多め。海外の人が長野を観光するってのはかなりマニアックですが、京都ほど混雑していない松本は過ごしやすいんでしょうね。欧米人が比較的いるようです。
縄手通り、四柱神社、中町通り。城下には古い歴史を感じられるところが多くあります。松本城を観光した後武家屋敷や土蔵造りの建物を見て歴史を感じちゃうのもいいんじゃないでしょうか。
こちらは女鳥羽川をわたった先にある横田という場所です。町の中心から2kmほど離れたところにある至って普通の住宅地ですが、こちらはかつて遊郭だったところです。
これはアソコが感じちゃう!
遊郭ができたのは1877年。
当時の松本は私娼窟があちこちに点在しており町全体の風紀が乱れていました。芸娼妓解放令により取り締まりをするも改善されないため遊郭を設置することにしました。もともと田畑だったところを造成し、遊郭ができました。松本遊廓が正式な名称ですが横田村に出来たことから横田遊郭とも呼ばれていたそうです。
何もないところに一から造成した遊郭だったため郭内は碁盤の目のようになっています。
遊郭は風紀が乱れるから街の中心地には置かず少し離れた場所に設置する。松本にあった遊郭もそんな理由で郊外に作ったようですが、横田遊郭の北西側500mの位置に信州大学があります。戦前はここに陸軍歩兵第50連隊の駐屯地がありました。松本が軍都と呼ばれる所以となった駐屯地ですが、そのそばには遊郭があったのです。横田遊郭は陸軍の福利厚生施設の役割があったのでしょう。
こちらには「舶来荘」っていう旅館があります。横田遊郭には舶来亭って座敷があったようなのでその当時の名を冠している旅館です。
かつての遊郭には梧三樓という座敷がありましたが、この梧三荘はその名残りでしょうか。
このように横田は普通の住宅街かと思いきや旅館が点在しています。横田にあった遊郭は私娼窟となり戦後も営業が続きましたが売春防止法施行前に旅館業に転業。温泉を引き新浅間温泉として温泉街になりました。
中心を通る道は広く遊郭の面影があります。
しかし遊郭に準じた店もなく飲み屋もありません。町の中心から離れた場所だったので旅館業に転身したのは正しかったのかもしれませんね。
横田遊郭は明治よりも前から市街地に点在していた私娼窟をまとめるために作ったわけですが、結局は私娼窟は残ったままとなりました。つまり明治の頃の松本にはあっちこっちに性風俗街があったようです。その最たる場所が裏町ってところ。
松本城の東側、現在の城東はかつて横田町と呼ばれていました。遊郭がつくられた横田村から移住してきた人が多かったからこの名前となったようです。隣接する和泉町が町人の町で松本城から見て裏側にあったことから横田町は裏町と呼ばれていたそうです。江戸時代は職人の街として栄えたそうですが明治になり料亭街に転身します。
松本は各所に私娼窟が点在していたためそれを取りまとめ横田遊郭を作りました。裏町にあった私娼も取り潰されます。でも遊郭は町の中心から少し離れたところ。エロい信州の大人たちは納得できなかったのでしょう。そんなわけで裏町を料芸街の許可を出しました。つまり娼妓のいる遊郭はだめだけど、芸妓のいる料亭街であれば営業してもよいってことになったのです。
裏町があったのは正行寺の門前。この界隈が花街だった場所のようです。
こちらにはスズキ・メソード発祥の地と書かれた看板があります。スズキ・メソードとは音楽を通して知育する教育法の一つでその発祥地がこの場所でした。ここは花街だった場所。そんなところに学校を作ったそうです。さすがは教育県長野って言われるだけあります。
こちらには松本医学専門学校提供の町と書かれた石碑があります。同学校は信州大学の前身。国立の大学は花街から生まれたそうです。そもそもここに学校があったのは料理屋や置屋を校舎として間借りしたのが理由のようです。
つまりザギンでお勉強会を地で行く信州人。
さすがは教育県長野。
とは言ってもザギンのキャバクラやスナックと花街を一緒にするべきではないでしょう。格式高き花街と低俗なスナックと一緒にするなんてのはおこがましい限り。花街はそんなところじゃないんです。花街は素晴らしい所、今でも裏町はその格式高い花街を継承しています。
これが格式高い花街のなれの果て。
料亭街だった裏町。現在はスナック街に転身しています。江戸時代は職人の町、幕末私娼窟へ。明治に入り花街となり、戦後は松本を代表する歓楽街になり、現在はスナック街になったようです。
高度経済成長期には道が混雑するほど人であふれかえり、バブル期は200軒以上の飲み屋が軒を連ねていたそうですが今はだいぶ静かな街となりました。なんとなく怪しい雰囲気がある街の感じがします。
明治期に私娼窟から花街に変わったとのことですが、本当に変わったのでしょうか?
花街は芸妓が接客する料亭が集まる街。
芸妓がお酌をして客をもてなすのは現代でいえばキャバレーやクラブみたいなもの。つまり裏町はキャバクラ街みたいなものだったわけです。キャバクラと言ってもシステムやコンセプトは多種多様。例えば熟女キャバクラは熟女が接客する店、コスプレキャバクラはコスチュームを着た女性が接客する店、セクシーキャバクラはセクシーな女性が接客する店、おっぱいキャバクラはおっぱいが接客する店。
芸妓だって色々あったはず。芸は売っても身は売らないとは限らない芸妓。明治になり料芸街の許可を得たころから当然そっち系の芸者もいたはずでしょう。そういった裏の顔が裏町にはあったのでしょう。そしてその裏の顔は150年経った今でも脈々と受け継がれているようです。
表向きはスナック街ですがどうやら裏の顔があるようで、夜な夜な立ちんぼが現れるエリアのようです。
ってわけで夜の裏町を散策します。
営業している店はあるものの人通りはまばら。かつての賑わいはもうなく地方の飲み屋街といった感じです。スナックが多いこのあたりが立ちんぼエリア。待っていればその手の女性が声をかけてくるはず。
違法風俗店が多くある理由は単純に合法な店が少ないから。禁酒法によってマフィアが儲けたように法律で規制すると裏社会の人たちが出張ってくるのは世の常。教育に不適切だからという理由で性風俗を規制した結果、逆に風紀が乱れる結果となるのです。以前長野県にある上山田温泉に行きましたが、そこのスナック街は連れ出し系の店でした。信州上田にも連れ出しスナックがありました。このような各所に私娼窟ができているのです。
明治の頃に私娼根絶を願ったのにもかかわらず、150年経った今でもそれは根絶されませんでした。
長野では昭和5年に廃娼の決議案が可決されていますが太平洋戦争によりうやむやとなり終戦を迎えています。
ぜんぜんこーねーし。
立ちんぼは全然来ません。そりゃ客のいない街路に立ってたところでは商売になりませんからね。
でも実際のところはいるんです。私娼が2名、それにおじさんが何もせず不自然に街路に佇んでいるんです。おじさんはポンビキで間違いないはず。すごい目線を感じるんですが誰も声をかけてこないんです。おそらく摘発を避けるためのものなのでしょう。松本では定期的に外国人娼婦が摘発されています。誰も彼も皆に対しマッサージイカガデスカと声をかけるのではなく、待ちの姿勢です。ここは信玄が統治した街だからでしょうか、それとも街娼が中国人で孫子の兵法を学んでいるのでしょうか。
まさに動かざること山の如し。