山林生活

【飛ばそう風船爆弾】極秘機関・陸軍登戸研究所跡地へ

【飛ばそう風船爆弾】極秘機関・陸軍登戸研究所跡地へ

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小田急線の向ヶ丘遊園駅に来ております。
名前の通りこの近くには「向ケ丘遊園地」がありました。「ありました」という通り現在は閉園して別のものになっています。
そちらにはまた今度行きます。今回は別の場所へ。

小田急線は新宿から小田原・箱根までをつなぐ長距離鉄道。小田急線が開業したのが1927年。その当時はまだ向ケ丘遊園地は無く、ここの駅の所在地が稲田村大字登戸だったため「稲田登戸駅」と呼ばれていたそうです。

【移りゆく時代の中で】ちょんの間は登戸にあったのか?
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本日は登戸駅に来ております。 この街には様々な思い出があります。しかしその思い出の場所というのは時間の

新宿寄りの隣駅は登戸駅。昔は宿場町として栄えていたんだそう。そのため客足は登戸に取られ、向ケ丘遊園はそこまで栄えていなかったのでしょう。

現在の向ヶ丘遊園駅は学生が多いです。その理由は専修大学と明治大学があるから。明治大学は隣駅の生田駅のほうが近いのですが、生田駅は各駅停車しか停まりません。向ヶ丘遊園駅は急行、準急が停まります。そして駅前から明治大学方面行きのバスが出ています。そのためこちらを利用する学生や教職員が多くいるんだとか。

本日はその明治大学生田キャンパスに行きます。
明治大学に行く理由は敷地内に「登戸研究所」の跡地があるため。

登戸研究所とは大日本帝国が設立した研究所です。同施設ではスパイ製品や毒物、生物兵器など謀略や秘密戦に利用するものを研究、開発していたんだとか。人体実験をしていた731部隊とも深く関係のある研究所だったんだそう。

登戸研究所ができたのは1937年。陸軍科学研究所登戸実験場として設立されました。所在地は現在の明治大学がある多摩区東三田。最寄り駅は東生田駅(現在の生田駅)で1937年当時は生田村になりますが、研究所の名称は「登戸」となっています。名称が登戸研究所なのは諸説あるようですが、その当時は単純にこの付近全体を登戸としていたのでしょう。ちなみにその当時の小田急線は稲田登戸駅(現在の向ヶ丘遊園駅)より小田原側は単線で、東生田駅は30分に1本しか列車が止まらないため稲田登戸駅を利用する人が多かったようです。今も昔も変わりませんね。

明治大学生田キャンパスです。明治大学は駿河台、和泉、中野、そしてここ生田にキャンパスがあり、ここは農学部、理工学部など理系の学部があるようです。もともと研究所として利用されていたところなのでうってつけの場所なんでしょう。

登戸研究所はキャンパス内にあります。コロナ前は誰でも自由に見学ができたのですが現在は人数制限をするため予約制となっています。事前に見学予約をしてキャンパス内に入る際は守衛で記名しなければなりません。

最終学歴が自動車学校(大型自動二輪)の私には大学キャンパスが新鮮です。大人になってからは受かりもしない国家試験に記念受験をした際に訪れた程度。

なんかいいですね。コロナがなければ学食とか立ち寄ってみたいんですが、このご時世ですので研究所の見学だけして帰ります。

こちらが登戸研究所跡地です。現在は明治大学平和教育登戸研究所資料館となっています。
登戸研究所自体は現在の明治大学生田キャンパスの敷地よりも広く、大学西側にある三田団地や三田小学校のあたりまで広がっていたんだとか。この建物はほんの一画に過ぎません。当時使用していた建物の一つをそのまま博物館としているようです。

博物館内の撮影は基本的にOKのようです。
NGのものは個人情報の記載があるものと地図や新聞記事など著作権が別にあるもの。これらの接写が禁止となっています。

日中戦争がはじまった1937年に登戸研究所は出来ました。もともとこちらの研究所は電波兵器や無線機器などを開発するための施設だったそうです。電波を発するのであれば高くて見晴らしの良い場所がよい。陸軍の科学研究所は新宿の百人町あたりにありました。そこから電車で一本でこれて高台であるこの地域は理想的だったのでしょう。

無線機器の開発はごく普通ですが「電波兵器」の開発ってのが凄いです。怪力光線や殺人光線といったなんかヤバそうなことを研究していたんだとか。今でいう高出力レーザー兵器やレールガンの走りみたいなものでしょうか。それを90年以上前から研究していたそうです。それらの兵器は「くわいりき(怪力)」から秘匿名称は「く号兵器」と呼ばれていたんだそう。電磁波やマイクロ波なども研究され、電子レンジが開発されたのは登戸研究所の研究も一役買っているようです。

電磁波、怪力派、殺人光線。
まさにその当時の研究者は頭にアルミホイルを巻いていたのでしょう。

もともとはこのようにアルミホイル巻く系の研究開発だったそうですが、偽札作りもしていたそうです。
国家ぐるみで偽札作りって、今でもどっかの北の国にあるっセヨっぽい感じですが、当時の大日本帝国はそんなこともしていたそうです。その当時は日中戦争で中国と争っていました。そのため中国の紙幣・元の偽札作りをしていたそうです。偽札を大量に流通させ人為的にインフレを起こさせるのが当初の目的だったそうです。
偽札といってもほぼ本物。当初はドイツから印刷機を購入して偽札作りをはじめたそうですが、後期は香港を占領した際にそこにあった本物の原版を使用して印刷していたんだそう。つまり本物をすり出していたのと同じなんです。
その額60億円。当時の日本の国家予算が200億円だったのでかなりの金額の偽札を流通させたそうですが、効果はなかったようです。

中国は偽札に関係なく戦争により物資不足となりハイパーインフレが起きたんだそう。その際に蒋介石政権は1万元札、さらには100万元札まで刷るようになったんだそう。そのため偽札で作った10元札や50元札は紙くずになってしまったんだとか。偽札作成当時1937年の元の発行残高は14億元だったのがインフレが起きた1945年は5569億元に達したようです。60億擦り出した偽札は全体の1%に満たない量になってしまったそうです。
このように偽札かく乱作戦は未遂になってしまったんですが、60億元(日本円と中国元は当時ほぼ同じ価格)を流通させたということは60億円使用されていたわけです。それを取り仕切っていた人物が阪田誠盛とフィクサーで有名な児玉誉士夫。偽札以外にアヘンの販売なども手掛けていたのでやっていることはほぼヤクザ。

阪田誠盛らは中国で紙幣の材料や金属資材を偽札で購入し、それを日本国軍に売る。このようにして儲けたそうです。ちなみに児玉誉士夫は自民党の前身となる日本自由党に資金提供をしていたんだとか。
つまりここ登戸研究所には自民党が国民に知られたくない暗部が隠され...。

おっと誰か来たようだ。

偽札を刷るのには紙が必要。登戸のこのあたりはもともと紙製造で有名な場所だったんだとか。紙の製造には原料となるコウゾと水が必要です。多摩のこのあたりは五反田川と人工で掘られた二ヶ領用水があります。また多摩丘陵の麓なので良質な湧水が多かったのでしょう。そのため偽札作りには適したところだったようです。

向ヶ丘遊園駅の近く、以前はこの辺りにダイエー向ヶ丘遊園店がありました。現在は取り壊しマンションを建てていますが、この辺りにも紙の製造工場があり、偽札の原料を作っていたんだそう。

そういえばむかしダイエーの裏辺りに製紙工場がありました。ここに製紙工場があったのも偽札作りと関係があったのかもしれません。

怪力兵器に偽札と色々やっている登戸研究所。そして731部隊が関係する毒物や生物兵器も研究していたそうです。

生物兵器に関しては人に対してではなく、動植物に対して効果のある生物兵器を作っていたんだそう。
人が生きるためには食糧が必要です。敵国の食料需給が落ちれば国が傾きます。そのため稲や麦を枯らす病原菌や牛などの家畜に影響のあるウイルス兵器の研究開発をしていたんだそう。また蛇の毒の研究や遅効性のある毒物の開発をしていました。これらは中国や当時占領下にあった満州、朝鮮で実際に実験利用されたんだそう。

あとはスパイ用品。ライター型のカメラや缶詰型爆弾などを作っていたそうです。あとはキック力増強シューズ、ターボエンジン付スケートボード、蝶ネクタイ型変声機、腕時計型麻酔銃などなど阿笠博士もびっくりの秘密道具もいろいろ作っていたのでしょう。

このように登戸研究所は色々な研究開発をしていますが、一番の発明品は風船爆弾でしょう。

風船爆弾、秘匿名称は「ふ号兵器(ぜんぜん秘匿する気がない)」。
日本陸軍が太平洋戦争の末期に利用した無差別爆撃兵器です。

日本から風船を飛ばしてアメリカに届けよう。
これを兵器化したのが風船爆弾です。これだけだとスゲー頭悪そうに聞こえますが、科学技術とその当時の知力が詰まったすごい兵器だったんだとか。

風船爆弾は風船に爆弾を括りつけて飛ばすわけですが、この風船の素材が和紙とこんにゃく糊で作られているんです。
太平洋戦争の初期は優勢でしたが翌年には戦況芳しくなく、日本は劣勢に立たされました。そのため物資補給が難しい状態でした。風船の材料といえばゴムですが、それが日本国内では入手できない。その代替品が和紙とこんにゃく糊だったそうです。

一つの気球を作るのに67cm×97cmの和紙を4000枚ほど使用。それを9300個ほど製造したそうです。登戸研究所で作られたのも紙の製造が盛んだったからなのでしょうか。和紙もかなり使用していますが、こんにゃく糊も多く必要で、軍が買い占めていたためその当時食卓にコンニャクが出ることは無かったそうです。

和紙で風船の部分を作り、その中に水素を入れます。これで風船の出来上がり。
日本からアメリカまでの距離はおよそ8000km。偏西風に乗ればこの距離を2日間ほどで渡るんだとか。気圧計やバラストを搭載してジェット気流に乗るように計算されていたそうです。偏西風が吹くのは冬。そしてアメリカまで渡れる風が吹いているのは福島から千葉の間なんだとか。ちなみに風船おじさんが出発したのは琵琶湖湖畔。大洗から出発していればもしかしたら風船おじさんはアメリカに到着していたのかもしれません。

終戦を迎える二年前の1943年8月。陸軍兵器行政本部はふ号作戦の研究を命じ、同年11月に試作品が完成。翌年3月には実験を行い、指令より一年後の1944年11月、風船爆弾は放たれました。
総数約9300発。実際にアメリカへは1000発以上が着弾し、それにより死者も出たんだとか。アメリカからすればどこへ飛んでいくかわからない無数の爆弾が飛来するわけです。しかも広範囲に飛んできます。威力は弱いとはいえ心理的な不安があったのでしょう。アメリカ政府は混乱を避けるために情報統制を行いました。また実際に被害に遭っているけどそれを開示しなかったそうです。そのため日本は風船爆弾の成果をほぼ知ることなく終戦を迎えたそうです。
でも実際に1割以上アメリカ本土に到着したようです。アメリカの本土を攻撃したのは日本だけと言われますが、その一つがこの風船爆弾でした。風船爆弾は焼夷弾を搭載していたそうですが、もしこれがウイルスを搭載していればアメリカの被害はもっと深刻で、戦況は変わっていたかもしれません。実際に炭疽菌やペストの搭載も検討されていたそうですが、アメリカからの復讐を恐れて爆弾だけになったんだとか。

風船爆弾が飛ばされたのは1945年の春まで。その半年後、日本は核兵器を使用され敗戦となりました。

太平洋戦争末期、日本は本土空襲に遭い、東京や横浜は焼け野原となります。川崎も川崎区付近は鉄工所などの軍事施設があったため焼け野原に、中原区付近も工場があったため被害が大きかったようです。しかし多摩区は軍事施設があったのに被害が少なかったんだそう。

「登戸研究所は軍事施設だけど重要な施設ではない。だから空襲被害がなかった」

そうではなく、アメリカは登戸研究所の研究情報と研究者が欲しかったため爆撃しなかったのでしょう。
まさか風船に爆弾括りつけて飛ばすなんて想像していなかったんでしょうね。終戦後の10月、米軍はここを接収しています。ベトナム戦争で使用された枯葉剤、もしかしたら登戸研究所の研究が深くかかわっているのかもしれませんね。

戦後は慶応義塾大学が一時的に借用。1950年に明治大学がこの土地を購入し、現在に至ってます。

結構見ごたえのある資料館でした。
事前予約が必要ですが、無料で見れますので機会があれば一度訪れてみてはいかがでしょうか。ちょっとだけ歴史に触れることができます。

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山林

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