【死せるロシアの戦士たちへ】泉大津市にあるロシア兵の墓【春日墓地】
夜行バスで東京から大阪まで来ました。現在、難波にいます。
昨日の夕方に食事をして以降、水しか飲んでなかったのでお腹がすきました。せっかく大阪にいます。やっぱり“大阪名物”食べたいじゃないですか!
大阪といえば粉モンですかね。先日からロシアとウクライナがドンパチしています。どちらの国も小麦生産が盛んです。今回の戦争で小麦は高騰しそうですね。そうなると粉モンの値段も高くなるのでしょうか。高くなる前に大阪の粉モン制覇したいです。
とはいってもまだ朝の7時です。普通の飲食店がオープンするのは11時頃。この時間に営業しているのは牛丼屋やマクドナルドといった東京でもあるようなチェーン店くらいです。あとは喫茶店のモーニングとか立ち食いソバでしょうか。この中であれば蕎麦でしょうね。東京であれば蕎麦ですが、こちらはうどんでしょうか。
ってわけでネットで探すと朝から営業している店を発見しました。朝から肉うどんを食べようと思います。
やってませんでしたー。
本日はお休みのようです。こちらの店は日を改めて来ようと思います。
少し歩けばほかにも店がありますが、同じように営業してない可能性もあるため朝ご飯は抜きにします。
これより難波から南海電鉄に乗って移動します。
行った先は泉大津です。大阪は何度も来ていますがほとんど大阪市内でした。そのためこのあたりの地理は詳しくありません。泉佐野市は空港もあるし色々問題おこしてたので記憶に残ってるんですけど泉大津市ってのは聞いたことがあるような無いような。
こちらに来たのは信太山新地に行くため。
ここからだと信太山新地までは歩きますが、その前にちょっと立ち寄りたいところを見つけたので泉大津駅で降りました。
泉大津のシンボルは羊なんだそう。ここは羊毛で栄えた街のようです。
江戸の頃、この辺りは綿花栽培が盛んで織物の産地だったそうです。明治以降は羊毛をつかった毛布の生産地になったんだとか。現在でも国産の毛布の9割が泉大津で作られているそうです。
ゆるキャラのおづみんです。悪くないですね。
こちらは駅近くにある大津神社です。せっかくなんでお参りしていきます。
ここがメインの入り口だと思ったら違いました。
こちらが大津神社の表参道です。
いつも通り「お金ください」とお願いをします。
こちらは泉大津のパワースポットになっている「厄除桃」です。桃は陰陽道では魔除厄除の果実とされているんだとか。陰陽道って神道と関係あるんでしたっけ?
本日はここより少し離れた場所に行きます。
行った先は墓地です。こちらの春日墓地は泉大津市営の墓地のようです。普通の大きめの墓地ですが、ちょっと異色なところがあります。
墓石で出来たピラミッドです。
東京にも墓石の墓場がありました。それと同じようなものなのでしょう。
遠くから見ると異質ですね。墓地のど真ん中にこれがあります。
「釋(しゃく)」と書かれた墓石が多いです。この字を戒名にするのは浄土真宗なんだとか。梵字が書かれているのは天台宗か浄土宗。この辺の知識がもっと深いと墓石を見る楽しさが増しそうです。
陸軍上等兵と書かれてある墓石もあります。歴史を感じます。
こちらは忠霊塔です。
昭和20年8月15日に終戦を迎えた太平洋戦争では310万人を超える人々が犠牲となり尊い命を落とされました。この忠霊塔は大陸の荒野、南海の島々、また海外で戦死した泉大津市出身の戦没者をたたえ、建立されたそうです。
泉大津市自体は空襲の被害はそこまでではなかったようですが、戦争と深く関わりのある場所のようです。
こちら、日本のお墓とは様子が違います。
こちらはロシア人の墓のようで、出来たのは明治のころ。
1904年2月。朝鮮半島と満州の権益により争いが勃発。大日本帝国とロシアとの間で日露戦争が開戦しました。
大量の死者を出した旅順攻囲戦。日本の戦死者は約15400名、ロシアは約16000名。甚大な被害をうけつつも日本はこの戦争に勝ちました。日露戦争で日本に送られてきたロシア兵捕虜は72000人。収容所を新設し、戦争が終わるまで収容していました。全国に複数収容所がありましたが、泉大津市の隣の高石市に作られた「浜寺俘虜収容所」は全国最大規模で28000人を収容できたそうです。
その当時の捕虜は雑に扱われていそうですが、そんなことはありませんでした。
日露戦争が始まる5年前の1899年。オランダ・ハーグで開かれた万国平和会議でハーグ陸戦条約ができました。この条約は戦争に関する条約です。現在の戦争でも化学兵器は禁止とかクラスター弾は禁止とか色々な条約がありますが、ハーグ陸戦条約は捕虜の扱いなど人権に配慮したものが含まれていました。
戦争に勝ったはよいが、諸外国から目の敵にされ、金融制裁や資産凍結、輸出入の制限とされてしまうとよろしくないってことだったのでしょう。日本はロシア兵を手厚くもてなしたそうです。中には収容所を自由に出入り出来るロシア兵捕虜もいたんだとか。そんな手厚い保護だったためか、捕虜引き渡しの1906年2月までの約1年間で、亡くなった人は89名だったそうです。
しかも亡くなった方はこのように墓地まで用意したそうです。つまりここはロシア兵の墓です。
このようなロシア兵墓地は愛媛の松山、群馬の高崎あと名古屋にもあるようです。捕虜は7万人以上もいたわけですからね。この場所は地元住民により提供されたんだそう。
お墓が出来たのは明治のころ。100年以上前にできた墓ですがかなりキレイに保たれています。時折ロシアの人がきて墓参りをしていくそうですが、今は日本に住んでいるロシア人くらいしか来れないですからね。墓の管理は地元の人たちがしっかりとやっているようです。
こちらは慰霊碑で当時のロシア政府が建設したそうです。
慰霊碑の下部には「魂よ、安らかなれ」と書かれ、上部には「死せるロシアの戦士たちへ 旅順港の戦友より 一九〇五年」と刻まれています。
日露戦争が終結したのが1905年。それから117年経ちました。露宇戦争は果たしていつ終わるのでしょうか。