【浅草のバタヤ部落】隅田川沿いのスラム街「蟻の街」
朝の浅草です。
浅草の雷門は日本人観光客だけでなく訪日観光客にも人気のスポットです。そのため日中は人だかり。どこの国の人かもわからない人たちで埋め尽くされています。
でも朝はこんな感じで人がおらず静かです。この様子を撮影したかったので浅草に宿泊しました。
冬なので日が昇るのが遅く時間は7時。そのため全く人がいないってわけではありません。この時間にもお参りに来る人はいますがよい雰囲気です。
本日はこれより隅田川沿いを散歩します。
隅田川の川沿いと聞いて何を思い浮かべますか?
一番は隅田川花火大会でしょうか。隅田川花火大会のその歴史は古く、1732年に8代将軍吉宗が大飢饉や疫病による死者を弔うための催しがルーツだと言われているようです。この起源に関しては伝承のためほんとかどうかはわかりません。ただ古くからこのあたりで花火大会をしていたのでしょう。
花火以外だと屋形船ですかね。比較的流れが緩やかな隅田川は屋形船に適しているのでしょう。新型コロナウイルスで初のクラスターが発生したのは隅田川の屋形船でした。あれのせいで風評被害もあったのでしょうが、舟に揺られながら酒を飲むってのも風情があっていいですね。
このように隅田川は観光地の側面がありますが、私の隅田川の印象はホームレスでした。
20年以上前に掃除屋のアルバイトをしていた際、河川敷の清掃がありました。
台東区が管轄する隅田川河川敷を業務委託で清掃業者が掃除をするのです。河川敷は隅田川テラスと呼ばれコンクリートで舗装されていますが雑草が生えていたり、ゴミが散らかっていたり、地面が汚れているため3kmほどある河川敷を定期的に掃除をするのです。
ってのは建前。掃除をするってのは本当ですが、片付けるのはゴミではなくそこに住むホームレスでした。
その当時は河川敷に多くの段ボールハウスが軒を連ねていたのです。橋の下だけでなく屋根のないところにもホームレス小屋があり、それが河川敷の道沿いに延々と続いていました。河川敷が汚れている理由もここの住む現地民の人たちによるものでした。タバコの吸い殻や生ごみ、酒の空き瓶。果ては排泄物が散らかっていたのです。このように河川敷はホームレスのたまり場でした。
浅草の北側には山谷があります。山谷には日雇い労働者が多く集まり、飯場や簡易宿泊所があります。稼ぎがある人はこれらの施設に泊まれますが、それがない人は川沿いに住んでいたのでしょう。その当時の隅田川は東京の最下層でした。
「掃除をするから片付けてくれ」とそこに住む人たちを半強制的に追い出すのが業務内容。追い出したら水を蒔きキレイにするわけですが、水を蒔くため地べたに座れなくなるわけです。このようにしてそこに住む人たちの自由を奪うのが、本来の目的だったのでしょう。中には怒る人、大声で怒鳴ってくる人もいましたが、こちらは仕事なので淡々と業務をこなしていました。
それからだいぶ月日が流れました。今では河川敷にホームレス小屋が軒を連ねている様子はありません。少しだけありますが数える限り。どうやら2010年頃から無料低額宿泊所が増え、ホームレスが生活保護を受けそこに住むようになったんだとか。いわゆる貧困ビジネスの台頭です。セーフティーネットとは名ばかりの囲い屋や生活保護ビジネスをしている業者が増えたのもこのころでしょう。川沿いにいた人たちがちゃんとしたところに入居できたのか、それとも貧困ビジネスに利用されたのかは定かではありません。
墨田区側にもいくつかブルーシートハウスが見えます。あちらの方が少し多めです。基本的にお金がないからここに住んでいるのですが、生活保護の手続きが困難な人や何らかの疾患を抱え一般的な生活ができない人がまだ路上生活をしているのでしょう。中には路上生活が好きで続けている人もいるのかもしれません。
こちらは隅田公園です。
ここもホームレスが大量にいた公園でした。でも今は普通の公園になっています。
とはいってもまだ住んでいる人がいますね。空き缶を集め、それで生計を立てているのでしょう。
このように隅田川沿いにホームレスタウンができた理由は、かつてからこのあたりはホームレスが集まる土壌があったからです。
こちらには「アリの街」と書かれた看板があります。ここ言問橋の脇にはかつて「蟻の街」と呼ばれたスラムがありました。
東京大空襲により関東近郊は焼け野原へ。そして終戦を迎えた日本。空襲により家を失った人、満州からの引揚者により東京は人でごった返していました。住むところも仕事もない人たちが言問橋の脇に集まり、1951年に元ヤクザの小沢求が「蟻の会」を始めました。蟻のように働く。それをスローガンに掲げていたそうです。
いわゆるクズ屋、バタ屋と呼ばれる鉄くずや古紙を集める廃品回収業だったようです。空き缶集めをしている人たちは、蟻の会の流れを汲んでいるってことですね。
ここに来れば飯にありつける。多くの貧困者が押し寄せたのでしょう。いつしかここはスラム街へと発展しました。しかし東京都としてはこのような場所にスラム街が形成されるのは好ましく思っていませんでした。そもそも蟻の街ができたのが1951年です。終戦から6年が経過し、日本はもう戦後から抜け出し始めたころでした。そのため4年後の1955年に立ち退きの話が出ました。
日本は1940年の東京オリンピックが戦争により行えなかったため、オリンピック開催を目指しており都内にあるスラムを一掃したかったのです。しかし蟻の会は不法占拠では無かったため強制立ち退きは出来ず交渉は難航。都と蟻の街とで話し合いが続き移転が決まったのは1958年でした。
移転先は東京都の埋め立て地「8号埋立地」。現在の潮見のあたりです。夢の島のそばなので廃品回収業としては適した場所だったのでしょうが、その当時はあまり環境の良い場所ではなかったのでしょう。そもそも潮見自体がごみの最終処分場だったわけですからね。
そういえば在日朝鮮人の街も潮見のそばの枝川に移されていました。オリンピックが絡むと海沿いが荒れるようですね。2021年東京オリンピックも豊洲が舞台でした。
現在浅草にあった蟻の街は隅田公園となり、若干空き缶を拾う人たちがいるものの、普通の街へと変わりました。また潮見に移った蟻の街も今は高層マンションが建つ住宅地となっており、残っているのは蟻の街に手を差し伸べたカトリック教会だけとなっています。蟻の街もなくなりホームレス村も一掃。浅草は観光が似合う街になりました。
ホームレスも一掃し一大観光地となった浅草。
雷門のあたりは観光客だらけですが浅草の中心から少しずれると静かな住宅街になりますが、その中に革製品を扱う店がポツポツあります。
浅草のこのあたりは皮革作業が盛んで、カバンや靴などの皮製品の製造業者が多くあります。これらの業種が多い理由は江戸の頃から。動物の死肉を扱うため衛生上の観点から事業が営める身分を限定していました。専売事業だとしても潤っているのは一部の上層部だけ、最下層の生活は苦しい上に身分差別をされていました。明治に入り身分差別をなくし四民平等となった後は専売特権はなくなったためさらに厳しい状態となったようです。それでも明治以降は西洋文化が入り込みカバンや靴、兵用具や軍靴など軍隊で使用する革製品の需要が増えました。
東京都人権プラザ前と交差点の標識には書かれています。身分差別のあった皮革産業。差別のあった土地にこの手の施設ができるのは当然のこと。でもすでに同施設はここにはありません。4年前までは分室として残っていたようですが、現在は港区の芝に移転したそうです。移転理由は建物の老朽化と「東京オリンピックに向けてこれまで以上に人権尊重理念を広く社会に発信」するためなんだとか。つまりここ浅草の隅田川沿いで発信するのは狭かったってことなのでしょう。
地方だとまだ差別意識が残っていたり、いわゆる逆差別的なことが起きているようです。東京の場合は土地が狭い上に人口も多く、太平洋戦争で焼け野原となっています。そもそも人の出入りの激しい場所です。出自を気にする人は少ないのでしょう。むしろ浅草に土地を持ってるってだけで資産があるわけです。
こちらには日本で唯一の皮革専門の資料館「皮革産業資料館」があります。営業時間前でした。今度は営業時間内に行きたいですね。
営業前なので閉まっていますが、こちらは吉田吉蔵記念館ってところです。吉田カバン、ポーターの創設者が晩年ここで作品を作っていた作業場だったそうです。ここに作業場を作ったのも良質な革を手に入れられるからなんでしょうね。
ちなみにここには「世界救世教教祖 岡田茂吉生誕の地」があります。
となりには東方之光の施設も。こちらは別の機会に行きます。
最近は安くて軽い化繊製品ばかりを使っていますが、重厚感のある革製品って所有欲が満たせるし、手入れをすれば長期間使えて愛着もわくんですよね。浅草のこんな近くにレザーショップがあるんです。それなら浅草レザーを使った自分好みの一品を作りたいです。
今欲しいのは昔はやったエビアンホルダーです。
保温性もなく首からぶら下げてるだけだから夏場は温くなるのが当然ですが、「フランスの水飲んでるオレ、カッコイイ」のオシャレファッションでその当時ブームになってました。オリジナルの革製エビアンホルダー、今度作りたいと思います。