【千葉行徳】吉原遊女の切ない恋の話「おかね塚」
行徳に来ております。
行徳は戦国時代の頃から塩の名産地であり、江戸時代は「行徳塩田」と呼ばれていたんだとか。
現在でも千葉のこの界隈には塩浜という地名が残ってます。
人は生きる上で塩が必要です。江戸に近いこのあたりは塩の安定供給のため塩田となったようです。要は国家事業のようなやつです。今でも政府が布マスクを作るといえば、どこから湧いて出たのかわからないマスク輸入業者に30億円くらい払ったとか払ってないとか、そういう話になるもんです。このように国家事業の甘い汁を吸う輩ってのはいつの時代にもいます。
幕府が名指しで塩作れって言ってるんだから、そりゃ潤いますよね。その当時行徳で働く人たちは稼ぎが良かったんだとか。
こちらは「おかね塚」と呼ばれるところです。
「お金」ではなく「おかね」です。つまり、かねさんのお墓です。
このお墓は行徳が昔、塩田だった証拠の一つのようです。
幕府の事業で始まった行徳塩田。
製塩には燃料となる木材が必要です。
そのため上総から木材が船で行徳まで運ばれてきたそうです。
船頭「せっかく江戸の手前まで来てるんだ。ついでに吉原へ行こうじゃないか」
このように考えるのはいつの時代だって同じです。
地方出張なんて半分はコレ目的です。みんな地方で遊ぶためにテレワークが主流になった今でも地方出張ってのが残ってるんです。
ってなわけで稼いだ金を持って吉原に遊びに行きました。
芸は売っても身体は売らぬが芸妓なら、身体は売っても心は売らぬは遊女。
遊女は商売です。お金を払ってもらえばそのひと時を楽しんでもらうようにするのが彼女らの務め。あくまでもその時だけの関係で、彼女らにとってはこれは仕事なんです。彼女らは甘い言葉を言いますが、それは稼ぐために発しているんです。
しかし、ミイラ取りがミイラになるとはいったもので、遊女側が客に惚れ込んでしまうこともあるようです。現代でいえば「ソープ嬢を落とした」ってやつでしょうか。
ここで登場するのが吉原遊女の「おかね」。
おかねは船頭と親しくなり、さらには夫婦の約束も交わしたそうです。
しかし遊女は籠の鳥。年季が明けるまでは郭の外には出れません。
船頭「年季が明けたら所帯を持とう」
おかねは船頭との約束を信じたそうです。
そして年季明け。おかねは晴れて吉原の大門から出て自由の身となりました。彼女は彼との結婚の約束を果たしに船が停泊する江戸川沿いの押切まで来ました。
しかし、いつまで経っても船頭は現れませんでした。輸送船の往来はあるものの、彼はこない。そんな日々が続き、いつしか吉原で蓄えた金も底をつきてしまいました。ずっと船頭を待ち続けたのですが、結局現れず。おかねはそのままここで亡くなったそうです。
この話を聞いた100人の吉原の遊女たちがおかねの気持ちを哀れみ、クラウドファンディングで建てたのが、このおかね塚なんだそう。
っていう言い伝えがあるそうなんです。
諸説あります!
まず、おかね塚がどれなのかが分かりません。こちらの石碑は由来を示した石碑です。
ここでおかねが亡くなり、それを悲しんだ遊女たちが塚を建て、さらにそれを知った自治会がこの石碑を建てたようです。出来たのは昭和51年。
この石像が遊女たちが建てたやつでしょうか。
こちらには寛文5年と書かれています。1665年なので元吉原と新吉原の転換点。吉原移設は明暦の大火があった1657年です。1665年に建立したとなると、おかねが亡くなったのはそれ以前になります。船頭が通っていたのは元吉原なのか新吉原なのか。江戸末期であればわかるんですが、どうも時代背景的に違うような気がします。
そもそも風俗嬢と結婚できるとか夢物語でしょ!?
ちなみにここから新吉原は直線で11km。元吉原の場合は12km。
ついでに寄っていくかレベルじゃない!
これより、行徳を歩きます。