路地裏に生き残る昭和初期にできた遊郭「船橋町新地廓」
本日は千葉県の船橋市に来ております。
こちらは船橋市内を東西に走る本町通りです。現在は本町通りの南側に千葉街道がありますが江戸時代はこちらが千葉街道でメイン通りでした。ここには宿場町があったのです。
成田や佐倉、また房総半島の街道が船橋に合流する物資の集積地。江戸につながる船橋は多くの人が往来しました。厳密には宿場町ではなく間宿だったようですが、江戸から船橋までは約30kmの距離なので宿泊するのは適した場所だったのでしょう。とくに成田詣が人気になると船橋宿は大人気スポットになりました。
成田詣での日程は3泊4日ほど。
江戸を出て一泊目は船橋へ、そして成田に行きもう一泊。翌朝参詣をして岐路へ。そして江戸に入る前に船橋で一泊する。
多くの人がこの旅程で参詣していたそうです。
参拝者のほとんどが船橋に宿泊していたならそりゃ宿場も繁盛したのでしょう。
江戸から成田までおよそ50km。当時は公共交通機関がないため徒歩になります。わざわざお参りするために50kmも歩く。当時の人は信心深かったのでしょう。
参詣は神に会いに行くための神事。当然身ぎれいでなければなりません。そのため参詣中は精進しなければならない。酒や肉、女も断ち心身を清めることに徹する。参詣は我慢プレイだったのです。
でもそれも参詣を終わらすまで。帰るまでが遠足ではなかった江戸時代。参詣後はご褒美タイムだったのです。
参詣後は精進落としができる。つまり酒も肉も女も食べ放題抱き放題。船橋から江戸まではおよそ30kmほど。家に帰る前に最後の一発って人もいたのでしょう。船橋には精進落としができる店があったそうです。
成田参詣は夫婦やカップルで行くと別れるってジンクスがありますが別れる原因は精進落としだった。
江戸時代の人たちは信心深いなと思ってましたがちんちん使いたかっただけ。
成田山詣は手軽な慰安の旅だったんですね。現代でいえば石和温泉や伊香保温泉に行きピンクコンパニオンを呼ぶ感じでしょうか。
その遊び方ももう現代ではない!
要は参拝を口実にした売春ツアーだったようです。
江戸時代当時は船橋に遊郭はなくあったのは非公認だけど黙認されていた岡場所でした。飯盛旅籠というもので旅籠屋が遊女を用意するシステムでした。
はたしてどの旅籠屋が飯盛旅籠なのか?現代でもあるじゃないですか?
呼べる呼べない問題。
東横インは呼べないけどアパホテルは呼べるとかワシントンは呼べるけど東急インは呼べないとか。旅行の際に呼べるかどうかは死活問題。呼べないと旅の楽しみが半減してしまいます。
でも船橋宿にあった宿場、今風に言えば「呼べる宿」だったそうです。しかもすべての宿が呼べる宿だったわけです。そりゃ人気の宿場町になりますよね。呼べるかどうかを悩まなくて済むホスピタリティの高い宿場町。江戸中のみんながかよっていてもおかしくないです。
このように江戸時代は破廉恥スポットだった船橋。精進落としという名目でちんちんモロだししてたのですが明治以降に状況が変わります。街道沿いに不適切な店があるのはよくないとしてこの界隈にあった呼べる宿は壊滅するのです。
こちらは明治天皇船橋行在所って石碑です。明治6年に習志野へ近衛兵の演習を見るため明治天皇が宿泊した場所でその記念碑のようです。
明治政府樹立以降、富国強兵のため明治4年に習志野に陸軍演習場を作りました。軍部あるところ性風俗街あり。兵士の性欲管理は軍部の務め。船橋は兵士の福利厚生施設となったのでしょう。演習場ができたことで船橋は更に賑わいました。しかしちょっと問題が発生しました。
国家事業として始まった陸軍演習場。当然指揮をとる天皇陛下も来るわけです。習志野へ行く道中に船橋も立ち寄るわけですが宿場女郎がいる宿しかない船橋。そんなところに陛下をお泊めできません。思案した結果、点在していた飯盛り旅籠を昭和3年に一カ所にまとめる形にしました。
思案に55年、もう元号2つも変わってる!
天皇がってのは口実なんでしょう。
女郎宿が点在してるってのは風紀上よくないです。そんなわけで本町通りの南側に遊郭ができました。軍部あるところ遊郭あり。国軍兵士が非公認の店に通うのは問題ですからね。正式に認める必要があったのでしょう。遊郭の名前は船橋町新地廓。またの名を海神新地と呼ばれていたそうです。
こちらは西向地蔵尊です。
ちょうどこの辺が宿場の入り口だったそうですが処刑場があった場所でもあるんだとか。遊郭があったのもこの近くでした。処刑場だったのは江戸時代の話。そんないわくつきの場所なので人も住まないので遊郭をまとめるにはよいところだったんでしょう。
船橋駅から離れているため住宅地と思いきや住宅に紛れて飲食店が点在しています。夜間飲食店、いわゆるスナックの類い。ちょっと異質な感じがする街なみです。これらは遊郭の名残りなのでしょうか。
普通の飲食店もあります。こちらは1980年創業の喫茶店です。レトロな雰囲気があって素敵ですね。
飲食店があるのも遊郭の名残りなのかもしれませんね。
遊郭だったのは戦後まで。戦後赤線街となりますがそれも売春防止法改正により淘汰されました。以降は普通の街に変わり、唯一残ったのがスナックだったのでしょう。少し中に入れば普通の住宅街となっています。
いや普通の住宅街にソープランドはない!
まさに遊郭の名残り!
周りを見渡しても住宅しかない地域にあるポツンと一軒ソープ。ここの近隣の人たちは玄関開けたら2分でソープに行けるんです。
こちらの看板は本町通り沿いにあります。利用者にわかりやすいようにしているのでしょうが看板の近くの交差点名が青少年センター前なんです。
船橋の青少年、大人の階段がだいぶ低い。
青少年センターは健全育成のための施設ですが全然健全じゃない店がそばにある!船橋は駅前に風俗店が複数ありますが特殊浴場はこの一軒だけのようです。
住宅街にある異質な性風俗店。入り組んでいてわかりづらい場所にあるのでこのような案内地図も見かけました。
ほぼソープの看板!
最近の性風俗店は過激な看板を見かけますがこちらは町の景観を崩さないようにしています。住民に配慮しているのでしょうね。でもここはもと風俗街で住民は後から来た人たち。かつては怪しい店が軒を連ねていたのでしょう。
この界隈にストリップ劇場がありました。しかし一軒は普通の住宅にもう一軒も普通の飲食店になっています。
こちらには五七の桐が描かれています。おそらくストリップ劇場の名残りでしょう。日本政府を象徴する五七の桐の紋。ここにあったストリップは国家機関に違いない!
こんな感じで特殊浴場くらいしか残ってない遊郭跡地。あとはラブホがあるくらいでしょうか。
ポツンと一軒ラブホ。
ある意味これは現代版の飯盛旅籠。
このようにラブホと特殊浴場は残ってるものの駅から離れているからか静かな街並みです。
現在の船橋は駅前が歓楽街となっておりそちらの方には現代版の簡易遊郭があります。駅から離れたこの場所まで遊びに来る人は少ないのかもしれませんね。ちなみに遊郭跡地のそばには船橋市役所があります。
これは役所の人が通ってそう!
本日は遊郭跡地を巡りました。特殊浴場が遊郭の名残りなのかはわかりませんが全く無関係ってわけではないのでしょう。ここに行けば時代も感じれるし別の感じることもできるはずです。
本日私は船橋に宿泊します。すでに宿は手配済み。当然事前に呼べるかどうかはリサーチ済みです。やはり宿場町だった船橋に泊まるわけですからその当時の雰囲気味わいたいですよね!ってわけで私は宿に戻り飯盛旅籠を楽しみます!