山林生活

弁天町から乙女町へ。廃娼県の熊谷にあった遊郭の生い立ち

弁天町から乙女町へ。廃娼県の熊谷にあった遊郭の生い立ち

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熊谷にいます。

熊谷の夏は暑い。いつの間にか毎夏騒がれるようになりました。こちらは八木橋百貨店の入り口脇にある大温度計です。夏になるとニュースで出るやつです。ただこの温度計、「温度計」ではなく「温度表示板」のようで、これ自体に計器の機能は無いようです。表示では35.5℃を指していますが、

ただいまの気温は27.0℃。

熊谷の最高気温は捏造だ水増しだと言われますが、「大温度計」ってのはちょっと違うんじゃないでしょうか。

熊谷は埼玉県北部で人口が一番多いところなんだとか。江戸の頃から熊谷宿として栄えていたんだそう。

熊谷宿は中山道が通っています。中山道は江戸から京都へ行く街道です。
江戸から京都へ行くのであれば東海道のイメージがあります。実際に中山道よりも東海道で京へ行く方が50kmくらい短いです。しかし東海道は道中多くの河川を越えなければなりません。橋の無かった時代、川を越えるのは容易ではありませんでした。河川の増水で足止めになることも多かったそうです。
中山道の場合、山道で険しく、記した通り距離も長いですが、足止めになる要素が少なかったそうです。時間は要しますが予定通りに進めるので中山道ルートを選ぶ人も多かったんだそう。

そのため板橋宿の次に栄えた宿場町だったそうです。日本橋から66km。休むにはちょうどよい場所だったんじゃないでしょうか。
人が集まれば遊郭的な店もできるもんですが、熊谷宿は藩の方針で遊郭の類の出店が禁止されていたそうです。まぁ禁止されつつも闇営業をしていたんだと思いますが、表向きはそのような店がなかったようですね。

でも明治になってから熊谷の弁天町に「弁天町遊郭」ができました。

やっと藩の呪縛から解き放たれ遊郭ができると喜んでいたのも束の間、埼玉は廃娼県となりました。廃娼県、つまり公娼を禁止するってことです。そんなわけで遊郭があるはずない地域なんですが、なぜか存在していたようです。これについては遊郭は公娼ではなく私娼っだったのでしょう。

怪しい店が広がる「高崎中央銀座商店街」にネコの癒しを求めて
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高崎につきました。ホテルのチェックインは済ませたので街を歩きたいと思います。 高崎は頻繁に

群馬県も廃娼県のため似たような形式でしたが、「遊郭」ではなく「乙種料理店」や「達磨屋」といった形式の飲食店・旅館を経営。実態は飲食店兼女郎屋、旅館兼女郎屋で、公娼制度は廃止しただけで遊郭っぽいお店はその後も残っていたようです。弁天町遊郭ってのも通称名称なんでしょうね。

この辺に遊郭があったそうです。
熊谷の遊郭は移転しており最初にあったのが熊谷駅の北側、弥生町あたり。

しかし1925年5月13日、墨江町(現在の星川一丁目付近)より出火。それにより遊郭は焼失してしまったそうです。
大正の時点で焼失しており遊郭も移転しているのでそういった店はなさそうです。

ただ、スナック的な店が結構あり、飲食店も多いです。

こちらの建物は空き家っぽいですが若干ピンクっぽい店が入っていたであろう外観です。

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酒田の街、こじんまりしていましたがよかったです。店がどんどん潰れてしまうのは残念ですがこれが世の常なんでしょう。

なんとなくキャバレーロンドン的な店のような感じ。

お店のドアが開いてます。すげー気になります。
看板の雰囲気は古き良きキャバレー的な店、もしくはただの性風俗店。熊谷にはこの手の店が無いようですね。

この焼肉屋、良いですね。満州から帰ってきた人が始めた店でしょうか。店の外観も店名も素晴らしい。

熊谷のこのあたりは教会が目立ちます。

こちらも教会です。
廃娼運動が盛んとなったのは明治になってから。廃娼運動の中核はキリスト教団体。とくに救世軍は廃娼運動家として活動をしていたんだとか。名目は女性の権利向上、貧困の救済ってことでしたが、実際に貧困の救済ができたのかはわかりません。教会がこの地域に多いため廃娼県となったのか、それとも廃娼県なのに女性の権利向上には至らなかったためなのか、それもわかりません。

こちらは愛宕八坂神社です。

遊郭の名残りは玉垣をみればわかります。でもこちらの玉垣は比較的新しいっぽいです。

おそらくここに字が書かれていたような雰囲気ですが消されていました。

地域によっては書き換えられちゃうようですね。永年名前を残せるわけではないようです。

1925年の火災により弁天町遊郭は消滅。その後遊郭は上熊谷駅の西側、現在の伊勢町あたりに乙女町遊郭として移転したそうです。

乙女町踏切。現在「乙女」の名称が残っているのはこの踏切だけ。

あとは電柱に書かれているだけです。

ここが遊郭のメイン通りでしょうか。遊郭ではなく私娼窟だったのでまたちょっと違う街並みなんでしょうね。

ちなみにこちらは熊谷駅前にあった鳥瞰図です。時代は昭和11年なので乙女町遊郭のころのものです。

奥の桜が咲いている街並みのあるところ。ここが現在の伊勢町、乙女町遊郭のあった通りです。華やかなのは、華やかな街だったからなのでしょうね。

現在は静かな街並みです。

このあたりも教会が多いですね。
人権を蔑ろにされた人たちが集まる地域には宗教家が来るものです。被差別部落には浄土宗が多い、ドヤ街にはキリスト系の宗派が多い。心の支えを必要としている人を助けようとしているのか、それとも勧誘しやすいためなのか。こういう地域には宗教関連施設が多い気がします。

乙女町遊郭は戦後売春防止法施行とともに消えてしまいました。ここは普通の住宅街で何も残っていません。

現在の遊郭に準ずる店は熊谷駅界隈のようです。一時期は箱ヘルやピンサロといった店が駅近くにあったようですが、摘発に遭い壊滅。現在はデリバリー遊郭的なものしかないようです。それ以外だと「エキサイト」や「ハッスル」といった言葉が似あうセクキャバのような下品な店くらいでしょうか。

ただ日中だとどんな雰囲気かわかりませんね。

ってことで夜の様子を見てまわります。
こちらは熊谷駅南口側です。戦後は赤線街として生き続けた乙女町遊郭ですが、売春防止法により解体。遊郭があった場所は住宅地となり、以後は駅近辺にそれに準ずる店ができました。熊谷は北口側が栄えていますが、南口側にもかつてその手の店があったようです。

ラブホテル的なところもあります。

この辺にいかがわしい店があったようですがそれらは壊滅。現在は「いかがわしいかもしれない洗体エステ」があるくらい。

北口側は飲み屋が充実しています。現在の時刻は21時前。お店は結構ありますが、コロナの影響でしょうか。あまり人が出歩いていません。

おそらくこれはピンサロだったであろう店。雰囲気がそれを物語ってます。

藩により飯盛女や遊郭が禁止され、近代では廃娼県となった埼玉県熊谷。本来エロいものはないはずですが、禁止されると血が騒ぐのが日本人の性。結局のところ他の地域よりも酷い状態だったのでしょう。あくまでも公娼が禁止されていただけで、需要があれば供給されるわけです。熊谷の歓楽街はこのようにして成り立ったようです。平成になっても本サロやいかがわしい店が駅前にはありましたが、それらももうなくなりました。

地方都市のその手の店が壊滅に追いやられるのは世の常です。熊谷も風紀改善の取り締まりの波にのまれてしまったようです。

弁天町遊郭と呼ばれたソレは、現在デリバリータイプになっているようです。
店舗型はキャバクラ、ホストクラブ、パブスナックなどの「甲種料理店」ばかり。

熊谷には“乙な店”がもうないようです。

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