埋立新地・下の新地。様々な呼び名があった高知の遊郭「稲荷新地」
こちらははりまや橋より東にある知寄町です。
かつては下町と呼ばれる地域で明治になりこの近くに下の新地と呼ばれていた稲荷新地ができました。とはいっても空襲により遊郭は跡形もなくなり、戦後も復興していないため何も残っていません。でもどこかにその名残があるはずです。
ってことで、これより稲荷町を散策します。
私が下りたのは知寄町二丁目駅という駅です。高知市内を走る土佐電鉄ははりまや橋を中心に南北に走る桟橋線と東西を走る伊野線・後免線があり、知寄町二丁目駅は後免線の駅です。かつてこの駅は新地通停留場と呼ばれており、この駅より南にのびる路線あったそうなんです。
この通りは新地通と呼ばれており1911年に遊郭の利用者のための新地線ってのが開通したそうです。新地線の終着駅は新地停留所(のちに若松町と改称)でした。しかし距離も短く戦時中は遊郭自粛により休止したためそのまま同路線は廃止されたそうです。明治の頃は栄えていたのでしょうが今はごく普通の住宅街です。
この道を進めば遊郭跡地にたどり着くのでしょう。新地線の距離は500m。知寄町二丁目駅から川岸までの距離が492mあるので駅は川沿いにあったようです。戦争により跡形もなくなっていますが、情報を集めていくとこのあたりに遊郭があったのがなんとなくわかります。
稲荷町のこの辺りは埋め立てられて作られたそうです。
隣町の二葉町に土佐稲荷神社があったからこの名がついたそうです。神社にも遊郭の名残りが残っているもんです。そのため神社にお参りに行ってみましょう。
こちらが土佐稲荷神社です。
小さな社ですが雰囲気の良いところ。
土佐藩主山内一豊公が徳川公の勧めで400年ほど前に祀ったのが始まりで200年ほど前に山内豊資がこの地に祀ったそうです。お稲荷さんなので商売繁盛のご利益がありますが、近くに遊郭があったためか縁結び神社としてにぎわっていたんだとか。
神社の玉垣には得月楼の文字が見えます。現在の本店は南はりまや町にありますが、かつては稲荷新地にあったのが本店だったんだそう。鏡川沿いにあったそうなので川沿いに遊郭があったようですね。
妓楼の名が鳥居の脇にあるのはふさわしくないのでしょう。手前に石柱があるため見づらくなっています。
こちらにも妓楼の名前が書かれています。泉厳楼という名の妓楼。
右上には擦れて読みづらくなっていますが「埋立新地」と書かれています。
このあたりは埋め立てられて作られた場所でした。遊郭設置当時はまだ名前が統一されていなかったのでしょう。そのため埋立新地となっているのでしょうね。
遊郭があったのは若松町にあるエネオス付近でしょうか。浦戸湾に近いこの場所は船乗りや荷役業務で人が多く集まる場所でした。そのため当時はにぎやかな場所だったのでしょう。わざわざ500mの電車をつくるくらいですからね。でもそれも戦争が始まるまで。戦時中は自粛となり、高知大空襲により焦土と化した稲荷新地は何も残りませんでした。郭の雰囲気もなく現在は普通の住宅地で、遊廓の名残りはお稲荷さんの玉垣くらいしか残っていませんでした。
中心地まで戻ってきました。
こちらははりまや橋の南にある南はりまや町です。
旧町名は「弘岡町」もしくは「浦戸町」または「朝倉町」です。戦後この付近は赤線地区ではありませんでしたが、表向きは飲食店で実態は売春宿といった店が400軒以上あったそうです。いわゆる青線地区ってところでしょうか。それだけ店があったってことはそれを利用する客がいたのでしょうね。
もともとこの場所が発展したのは稲荷新地が空襲で焼け野原となったのがきっかけでした。そこにいた妓楼がこのあたりに引っ越してきたそうです。遊郭ではありませんが中心地から近いし料亭や料理店であれば営業できるわけです。まぁ多少のエロがあっても大丈夫だったのでしょう。そんなわけで戦後から高度経済成長期までは人気のスポットだったようです。しかし不景気により利用者の低迷しました。
本日はお休みのようですがこちらは料亭「得月楼」です。
明治3年に「陽暉楼」として高知城の西側にあった遊里「玉水新地」で創業しました。板垣退助が通っていた店がそれです。武道を重んじ料亭や遊郭の設置を禁止していた土佐。明治になり解禁となったことで人気が出たようです。玉水新地の妓楼が成功した後は稲荷新地に新たに妓楼を作り、そして明治38年、浦戸町に得月楼中店(現在の店)を開業したそうです。その当時の建物は空襲により焼失したそうで、現在の建物は昭和24年に建てたもの。戦後にできたものですが登録有形文化財として登録されています。
こちらは同じ町内にある料亭「濱長(はまちょう)」です。こちらには料亭お抱えの芸妓がいるそうで明治以降にできた土佐の芸妓遊びを楽しむことができるんだそう。というより高知の芸妓は一度衰退し、現在はこちらのお店でしかやっていないんだそう。
戦後は違法風俗店が入り混じっていた地域ですが、今は普通の住宅があり料亭がある街に変わりました。稲荷新地が空襲被害に遭っていなければ高知の歓楽街は違った形になっていたのでしょう。現在の歓楽街はお隣の堺町と飲み屋が広がる帯屋町のあたりでしょうか。娼妓が堺町のソープならば、芸妓は帯屋町のキャバクラ嬢。
今夜は帯屋町の現代版の料亭へ。営業開始までまだ時間があるようです。はよ、よさこい。