明治になってできた遊郭。神奈川にあった「反町遊郭」
本日は東神奈川に来ております。神奈川県横浜市神奈川区神奈川。神奈川って文字数が多いんですが、それが三個も入るんです。横浜駅より二つ隣りの駅。東神奈川の隣は神奈川駅。つまりこのあたりが神奈川の中心ってことです。
現在の中心地はみなとみらいや横浜駅のほうですが、江戸時代はこのあたりに宿場町(神奈川宿)があり、栄えていた場所なんだそう。ペリー来航後の開港の際にアメリカからは神奈川宿近辺を指定されていたそうですが、江戸幕府はそれに難色を示し隣町の横浜村を開港する形にしたんだとか。
県名と県庁所在地が違う理由は戊辰戦争の際に幕府側の藩への報復措置という説がありますが、町の中心は元々違っていた。これが横浜県ではなく神奈川県となった理由の一つなんでしょう。
神奈川県の名前の由来もこのあたりにあるんだそう。由来は諸説あるようですが「川が流れていた」ってことなんだそう。
横浜駅近くに帷子川が流れています。帷子川が神奈川の由来という説もあるのですが、神奈川宿から少し離れています。
こちら、現在上流は暗渠となっていますが神奈川宿の中心当たりだったところに川が流れています。名称は滝の川ですが、なんかこっちの方が位置的に神奈川の名前の発祥の場所なんじゃないでしょうか。もしかしたら昔は神奈川って呼ばれていたのかもしれません。
2020年に私は日本橋から京都まで陸路で向かいました。日本橋⇒品川宿⇒川崎宿⇒神奈川宿。三つの目の宿場町です。一応このあたりも通過したのですが、その日のうちに藤沢まで行くつもりだったためスルーした場所です。今日は神奈川宿を見ていきます。
宿場町といえば遊郭です。ただ神奈川宿の遊郭は禁止や取り締まりが繰り返し行われていたんだとか。
1900年より前は七軒町と宮洲町ってところに遊郭があったそうです。位置的には現在の青木町、栄町付近です。
1900年に七軒町・宮洲町から北側にある反町に移転したんだとか。そのため移転してからの歴史はそこまで古くありません。
国道一号線(横浜新道)沿いに駅があります。
こちらは東急東横線の駅。横浜に行くときは同線を利用しますが、いつも急行に乗っているためこちらの駅を認識していませんでした。この駅の東側に反町という地名があり、明治から昭和初期までこのあたりに遊郭があったそうです。そこが反町遊郭(青木町遊郭)というところ。
遊郭があったところには吉原のように現代版遊廓ができるケースもあれば普通の住宅街に変わるケースもあり、反町遊郭は後者でした。現在は普通の住宅街。
普通の住宅街になった理由は横浜という土地柄だったからなのでしょう。
この地域は明治になってから作られ、昭和初期まで遊郭となっていました。宿場町のそば、そして開国により潤っていた横浜。その中間地点にあった反町遊郭は人気スポットだったのでしょう。
しかし太平洋戦争がはじまると「贅沢は敵だ」ということで遊郭は取り潰しとなりました。これはどの遊郭でも起きること。遊郭だったところは軍事施設や兵の宿舎となるケースがあり、ここも同じように軍事施設になったようです。
終戦を迎え売春防止法が施行されるまで他の遊郭であれば赤線街に切り替わるのですが、この辺りは横浜大空襲に遭い町全体が消失してしまったようです。しかも戦後は占領軍によって占領されていた場所でした。占領されてたんじゃ商売もできないですよね。
占領から解放された後は日本貿易博覧会の第二会場として利用され、その後1959年まで横浜市の庁舎がありました。役所があるんじゃ商売もできないですよね。現在は反町公園になっています。
こちらは1890年創業のウナギ屋さん。その当時を知っている店なのでしょう。どうやらこの脇に遊郭の大門があったんだとか。ちょっと気になりますがオープンはまだ先のようなので断念しました。
ここに大門があって遊女屋が建ち並んでいたそうです。奥に見えるのが反町公園。遊郭は反町公園の中腹辺りまで続いていたんだとか。
でも現在は普通の住宅街です。他の遊郭は店がなくても道路や区画の様子からなんとなく雰囲気が残っているもんですが焼け野原となりその後占領され、役所の一部として利用されていました。そのため姿かたちは残っておらず、多分これが大門のあった道なのだろう程度しかわかりませんでした。
明治に入ってから出来た遊郭ですが、その当時の面影は一切無く、その遊郭の雰囲気はゼロでした。
横浜は黄金町や伊勢佐木町あたりが現在の歓楽街となっていますが、反町遊郭と同じように横浜近辺はいくつか遊郭があったようです。その辺も回りたいです。