浜松町にある三大スラム街だった「芝新網町」
浜松町にきております。
大門・浜松町。大江戸線、東京モノレール、JR線の乗換駅で利便性が高いです。
駅前には大きな商業ビルがあり現在も建設中です。
東海道の日本橋と品川宿間にある浜松町。
利便性の良さは今に始まったことではなく、昔からこの地域は江戸から近くて利便性の高い場所だったそうです
ちなみに駅名の「大門」。
遊廓の入り口があった場所だと思ってましたが、そうではなく増上寺の入り口のことのようです。
さて、本日浜松町に立ち寄ったのは浜松町に日本三大貧民窟があったからです。
日本三大貧民窟は四谷鮫が橋と東上野、そして浜松町です。
先日上野に行きました。
また四谷にも行きました。
浜松町に行けば、三大貧民窟を全て回ることができます。
三大貧民窟とはいっても上野も四谷も貧民窟の雰囲気はありませんでした。むしろ交通の便の良いところで、現在は住みやすい街です。四谷のあたりなんか高級住宅地っぽい雰囲気でしたからね。浜松町もほかの二つ同様に貧民窟の様子はないのでしょう。
実際に駅前はキレイですしね。
このあたりが貧民窟のあったところで、昔は芝新網町と呼ばれていたそうです。
元々は芝浦の一部で漁師町でした。1626年にここで獲れた白魚を幕府に献上したところ、その褒美に海岸に網干場の土地を与えられ、新網町の名となったようです。
ただ記した通りこの付近は江戸の中心からも近く、東海道沿い。利便性が高い場所でした。そのため多くの人が集まったようです。四谷が貧民窟となったのは軍施設が近くにあったためでしたが、新網町はそういうのではなく自然発生的に増えたようです。所謂河原者と呼ばれる人が集まり、近くには芝居小屋もあったんだとか。
しかし現在は普通の街並みです。オフィス街も多くあり、街の中も商業ビルが多いです。
町の突き当りに舟屋がある程度です。こちらは新網町ではなく芝湊町ってところ。
舟屋の裏手には水路があります。これが江戸時代の名残りでしょうか。
このトンネルを抜けると東京ガスの施設があります。
雰囲気がかなり怪しいです。
トンネル入り口にはお地蔵さんがいました。
町内にある酒屋。角打ちでしょうか。ちょうど正月のタイミングだったのでどんな店かわからず。昔からある酒屋であれば当時の貧民窟を受け継いだみせなのかもしれませんが、見た目は大分新しい感じです。貧民窟だったのは江戸時代のころ。明治大正もまだ存在したようですが地価が高騰して徐々に減ったいったそうです。そして関東大震災によりこのあたりも壊滅し、江戸時代からあった貧民窟は普通の街へと変わったようです。
町内にある神社です。小白稲荷、讃岐稲荷の二つの神社が合祀されています。貧民窟の中心にあるお稲荷さん。当時はここに住む人たちの拠り所となっていたのでしょう。
「銀座 おそめ」と書かれていますが「おそめ」をネットで調べると結構有名な人のようです。空飛ぶマダムと呼ばれ、元々は祇園の芸妓でしたが、銀座と京都に店を構え飛行機で往復する生活を送っていたんだとか。水商売に従事する女性を「夜の蝶」と呼ぶようなった最初の人なんだとか。
神明芸妓組合、鶴田浩二、伴淳三郎など芸関係の組織や人の名前が目立ちます。浜松町の近くには昔は花街もあり歌舞伎小屋もあったそうです。そのため芸能関係の人の名前が多いです。
興行があればそれを仕切る人の名前も。こちらは波木一家です。
石碑にも三代目の名前が彫られていました。今であれば暴力団との関係は法律上問題となりますが、昭和四十年ころは神社仏閣と侠客の関係は切っても切り離せない存在だったのでしょう。昔の縁日といえば的屋や香具師がいるのが定番でしたからね。
め組とは誰しも知っている江戸の火消し。
博徒系の暴力団の起源は火消しめ組なんだとか。
いまでこそ社会から爪弾きにされているヤクザ。でもその昔は自警団の役割がちゃんとあったのでしょう。建築功労者だった波木一家もその当時は浜松町で必要不可欠の存在だったのかもしれません。
建立は1830年ころなのでおよそ200年前にできたっぽいです。
芸能の仕事に従事している人を「河原者」と呼んでいました。
ここ新網町は川のそば。人が住みづらい場所だったのでしょう
江戸時代は住みづらい場所でしたが現在は高級住宅地になります。
大江戸線大門駅の隣の汐留駅のほうには高層マンションがいくつもあります。浜松町にも新しくマンションができるようです。貧民窟だったところが高所得者が住むタワーマンション街へと変わっていっています。時代が変わると蔑まれていた場所がもてはやされる場所になるようです。
現在人が住まないような土地を買っておけば、いつかは高値で売れる日がくるのでしょう。
山林を買えば、いつかは10倍の値段で売れるのかもしれません。
でも、それが来るのは200年後っぽいですが。