【男にはつらいよ】消えた柴又ソープ、矢切の渡し【柴又観光】
本日は柴又に来ております。
柴又と言えば「男はつらいよ」ですよね。駅前には寅さんとそれを見送るさくらの銅像があります。
映画で有名となった柴又ですが、それまでは普通の下町だったそうです。映画の舞台となりそれにより観光地化。一時はすごい賑わいがあったのでしょう。しかし渥美清氏が鬼籍に入ってからもう26年の月日が流れました。2019年に寅さん不在の映画が放映されましたが区切りの良い50作目。もう次の作品はないのでしょう。現代ではVR技術やディープフェイク、音声合成技術が進歩しています。そのためバーチャル車寅次郎の実現もできるのではないでしょうか。ぜひ51作目は「男はつらいよ 寅次郎、転生し異世界へ行く」でお願いしたいです。
おそらく柴又の商店街の人も映画継続は切実な思いがあるのでしょう。聖地巡礼で来る観光客も年々減少します。49作目、50作目は特別編と寅さん不在の映画。男はつらいよの“男”が最後に出たのは1995年なので今から27年前。地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災のあった年です。30歳より下の人は寅さんを知らない人も多く、40代でも怪しいところではないでしょうか。そのため柴又の寅さん効果は徐々に衰退するのでしょう。
私は寅さんが好きで25作目あたりまでのを何度も見ていました。最新作も見ましたが、やはり一ケタ台の寅さんが好きですね。
そんなちょっとだけ思い入れのある柴又を本日は散策します。
未だに寅さんにすがっているところがあります。
日本は高齢化の一途をたどっているため「男はつらいよ」を観ていた世代の人は存命です。それがいなくなるまではこの状態が続くのでしょう。
寅次郎効果が消えた後はうんこに頼るしかなさそうです。
ここが帝釈天まで続く帝釈天参道です。通りの両側にはお店がいくつもあります。
「とらや」という名前のお店があります。男はつらいよでもおいちゃんのお店の名前はとらやでした。
雰囲気がなんとなく似てますが、こちらは映画で利用されていたそうです。でも4作目までしか利用されていないんですね。
元々こちらの店は柴又屋という屋号で明治20年に創業されたそうです。現在の屋号は「とらや」となっていますが、これは映画で使われたからそれに乗っかって変えたのでしょう。しかし実在する店と屋号が被るのは望ましくないってことで、映画の方が40作目から「くるまや」に変更になったそうです。
ちなみに二軒隣の高木屋という店が「とらや(くるまや)」のモデルとなっているんだそうです。それもそのはずで高木屋は団子屋ですが、
「とらや(柴又屋)」はそば、冷やし中華、ラーメンにかき氷がある定食屋兼団子屋のような感じ。
柴又で草団子が有名な理由は、江戸川の河川敷でヨモギが取れたからなんだそう。
また参道には川魚を扱う店があります。
これも江戸川の恩恵を受けているのでしょうね。
こちらは「とらや(柴又屋)」の裏手になります。柴又に来る前に少し調べていたのですが、どうやら柴又は花街があったそうなんです。
お寺や神社の周りに花街ができるのはよくあることです。浜松町そばにある芝大神宮近くも花街でした。
水戸街道から少し離れた所にある柴又はそういったのに適していたのでしょう。寅さんの出自は五代目とらやの店主、車平造と芸者との間に生まれた私生児というストーリーがあるように花街と深くかかわりがあるようです。
芸は売っても春を売らないのが芸妓の仕事。吉原のように遊女のいる色街とそうではない花街があり、ここ柴又は後者だったようです。そういう色遊びは吉原が担っていたのでしょう。
でもかつてここにソープランドがあったそうなんです。
店名は「柴又キング」。ちょうどこのあたりで営業していたんだそう。
柴又屋の裏手と思いきやどうやら同じ敷地内。そもそも柴又キングは柴又屋が経営されていたんだとか。
映画ではとらやの裏側はたこ社長の印刷工場があるはずなんですが、実際は労働者諸君の憩いの場だったようです。
平成の初期の頃までは存在しており、10年ほど前まで建物は残っていましたがそれらもすでになくなってしまいました。裏手であまり目立たないし利用客も少なかったのでしょう。奮闘努力の甲斐なく、柴又に唯一あったソープランドは消えてしまいました。
男にはつらいですね。
こちら、柴又帝釈天です。帝釈天は戦いの神「インドラ」。
戦勝祈願のご利益があるそうなのでお祈りしてこの後パチンコ行きます。
江戸川に向かう途中に閉店してる店を見つけました。こちらのお店は230年続く老舗「川甚」という料亭です。映画「男はつらいよ」でも妹さくらの結婚披露宴をした場所です。名前の通り江戸川で獲れた川魚を提供していたのでしょう。
2020年のコロナ騒動によって披露宴の自粛、宴会の中止、そして観光客が来ない日が続きました。飲食店でも規模の小さい店舗は給付金で逆に潤ったところもあったようですが、こちらのお店のように規模が大きく多くの従業員を抱えているところの自粛要請はかなり負担があったのでしょう。同店は2021年1月にコロナによる経営難により閉店したそうです。230年の歴史もたった一年でダメになってしまうんですね。
こちら江戸川の河川敷です。柴又のあたりには橋がなく、千葉県に渡るためには2km北上した新葛飾橋まで行くか、5km南下した市川橋まで行かなければなりません。でもここには江戸時代から渡し船があるのです。
「矢切の渡し」
誰しも一度くらいはこの名前を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
細川たかしで有名となった「矢切の渡し」のそれです。
江戸時代、幕府は江戸防衛のために江戸川には橋を架けませんでした。渡し舟が唯一の交通手段で水戸街道には金町から松戸に渡る舟があったそうです。江戸川はある種の国境。そのため誰でも気軽に渡れるわけではなく厳しくチェックされていたそうです。
しかし対岸の矢切側は一面田んぼがあります。そしてその畑を管理する農民が柴又にいたわけです。わざわざ川の反対側に渡るために金町や松戸へ行くのは大変です。そのため地元の農民に限り、柴又から矢切への渡し舟が許可されたそうです。
当然地元住人だけでなく関所を通れないお尋ね者もコレを利用したのでしょう。矢切の渡しの歌は駆け落ちの歌。もしかしたら江戸時代の頃のことを歌っているのかもしれませんね。
矢切の渡しは現在もあります。こちらの渡しは杉浦家の人たちが一子相伝で代々受け継いでおり現在は五代目なんだとか。川を渡ると修羅の国マッドシティ。南斗乱れる時、北斗現る。せっかくここまで来たんです。愛を取り戻しに舟に乗ります。
料金は片道200円。往復400円です。以前は片道100円だったようですがインフレの波は江戸川まで押し寄せているようです。
今でも江戸時代同様に渡った先は畑です。渡し舟が接岸するそばにバス停があるそうですが、このバスは観光用バスで週末しか運航していないようです。つまり渡ると畑のど真ん中に置き去りになってしまいます。そんなわけで往復の400円にしました。
平日なので私ひとり独占です。週末は結構混雑するそうです。手漕ぎで渡ると思いきや、エンジン始動させ少し進みます。川の中腹手前でエンジンを切り、以後は「矢切の渡し」を楽しむため船頭さんが手漕ぎをしてくれます。
エンジン音が消え、川の水が流れる音が静かに響きます。そのような中、船頭さんの口上が始まります。
まるで寅さんのよう。寅さんであれば「物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範。はじめばかりでは話にならない...」と続くわけですが、船頭さんの口上は全方向に喧嘩をするスタイル。ある種の喧嘩口上ってやつです。
マッドシティ、翔んで埼玉、清く貧しく葛飾区と言った具合に千葉埼玉だけでなく地元にも喧嘩売る感じ。私も人のこと言えませんが、聞く人によっては不快に思うかもしれません。まぁでもこれくらいファンキーな方が良いのかもしれません。江戸時代の雰囲気が台無しなんて思う人がいるかもしれませんがそもそもその当時の雰囲気を知ってる人いないし、もしかしたら江戸時代の船頭も似たような感じだったのかもしれません。
一度千葉側に接岸すると思ってたのですが往復の場合は岸の手前で引き返します。つまり「渡し」をせずに江戸川を舟で10分ほど遊覧しただけです。
本来こういうのはカップルで乗るものなんでしょう。
舟の上で愛を育み、矢切側に渡り3.5kmの道のりを40分歩き松戸のホテルに行く。本来あるべき姿はこの形なのでしょう。
中年のおじさんが一人で舟に乗ってたら、それは事案でしかありません。
独り身の男はつらいよ
でもこのような経験はなかなかできないので乗れてよかったです。
そもそも渡し舟として使う人はおらず、あくまでも観光目的のための遊覧船。ちなみに柴又側の河川敷沿いにある駐車場は有料ですが、松戸側は無料駐車場があるんだそう。そのため車で来るならば松戸側の駐車場に停めて矢切の渡しで柴又に渡り、帝釈天に挨拶して観光した後は再度舟で戻るプランがよさそうです。
柴又キングがもうなかったのは残念ですが、寅さんの聖地巡礼ができたのはよかったですね。私はテキヤ稼業ではありませんがフーテンの身。西に行きましても東に行きましてもとかく土地土地のおあ兄さんおあ姐さんにご厄介をかけがちたる若僧です。
以後、見苦しき面体お見知りおかれ、行末万端御熟懇に願います。