山林生活

仏も見放す崖の下のスラム街「横浜乞食谷戸」

仏も見放す崖の下のスラム街「横浜乞食谷戸」

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本日は横浜の南太田駅に来ています。

京急線・南太田駅。駅の乗降者数は15000人ほど。横浜の中心地からさほど離れてなく、歩いて関内や桜木町にも出れます。利便性がよいため居住者も多いようです。

【横浜黄金町】浄化作戦で消えたちょんの間。高架下の今
【横浜黄金町】浄化作戦で消えたちょんの間。高架下の今

日本三大ドヤ街の一つ寿町に訪れました。山谷西成寿町。これで私はミッションコンプリートしたわけです。西成の

隣駅は黄金町です。黄金町には以前、違法風俗店が乱立していました。

黄金町は繁華街となっていますが一つ隣りの駅はこのように静かな場所となっています。
でもこちらの地域、戦前は貧民窟だった場所のようです。

横浜のこのあたりは「○○ヶ谷」や「○○が丘」、「○○台」といった丘陵地を形容する地名が多く見られます。
横浜駅やみなとみらいのあるあたりは埋め立てによってつくられた場所のため平坦ですが、元町の方には「山の手」と呼ばれる地域もあり、横浜はちょっと内陸に入ると起伏が激しいのです。南太田のあたりも駅のあたりから坂道があります。

現代でもタワーマンションに格差があるように、高いところは富裕層が、低いところには貧困層が住む状態になっており、それは古い時代でも同じで、低いところは貧困層が住むのが一般的だったのでしょう。今のように下水設備がなく、治水整備もされていなかった頃は雨が降れば山の水は谷に集まります。南太田のあたりも谷間は湿地帯となっており、雨が降れば水が溢れ、晴れても水は引かない。そのようなところは住めるような場所ではなかったのでしょうが、そこに住むしかない人たちがここに集まったようです。

いつしかここは乞食谷戸と呼ばれ、神奈川最大のスラム街だったそうです。

夜鷹に残飯屋。谷の底のスラム街「四谷鮫ヶ橋」の今
夜鷹に残飯屋。谷の底のスラム街「四谷鮫ヶ橋」の今

東京は関東平野にあります。平野といっても実際のところそこまで平地ではなく起伏が激しいのです。東京

ここと同じようなところが四谷にもありました。あそこも周りは山に囲まれ谷になっていました。四谷鮫が橋は仕事を求めて地方から人が集まりスラムが形成されました。横浜の乞食谷戸ももともと野非人が集まる集落だったところに横浜港開港を機に人口が増加してできたようです。港業務に従事する人、町が潤い人が多く集まるところからおこぼれをもらう乞食が集まってきたようです。

貧民窟だった理由は治水が不完全で排水処理がされていないため。その問題さえクリアできれば横浜の中心地から離れておらず急な上り坂を登る必要もない。むしろ山の上より崖下の方が駅も近く交通の便が良いため住み心地の良い場所です。

こちらはドンドン商店街です。

この辺りは道がクネクネしていますが、どうやら昔は河川が流れていたそうです。谷間にある河川。普段は緩やかな水の流れも雨が降ると水かさが増し、この辺りはかなり激しい水の流れだったそうです。その際、「ドンドン」と音がして流れることから通称ドンドン川と呼ばていたんだとか。現在は暗渠となっていますが、商店街の名前はその名残りのようです。

この辺りが乞食谷戸と呼ばれていたのは明治大正のころ。関東大震災で被災したこの地域は治安改善のための政策により公営住宅を建てたそうです。

庚台のあたりに公営住宅ができたそうです。ここに公営のアパートを作ったのが同潤会です。有名なのは神宮前にあった青山同潤会アパートではないでしょうか。同潤会はいわゆる現代のUR公団みたいなもんで、震災で被災した地域に公営アパートを建てて治安維持をしていたそうです。

それにより徐々に改善し、一部は残っていたものの戦後には普通の街に変わりました。

現在は治安が悪いどころか住みやすい環境です。若干狭い路地があるのがその当時の名残りでしょうか。

右を見ても左を見ても山があります。おそらくこの谷間の中央に川が流れ、そのそばに掘っ立て小屋に貧民が住んでいたのでしょう。

山の上に登ってみます。こちらは久保山に行く坂道。結構な急斜面です。電動チャリで登るのもしんどそうな坂。

山を登った先に久保山墓地があります。こちらの墓地は1874年(明治7年)に作られたそうで東京ドーム約3個分の広さのある霊園です。崖の下はどうにか生きるために辛い生活を強いられている人たちがいるのに対し、崖の上には死んだ人が眠る台地となっています。

大きな霊園があるため、この辺りには寺院が多くあります。

お寺の存在意義は布教や文化の継承だけでなく、教育や福祉といった貧困や病気・けがで人権をおざなりにされた人たちに手を差し伸べる役割だったはずです。もう今のお寺は死人のために存在しているだけのようになっています。私自身信仰心がないため仏閣にお参りをしても住職の話を聞くこともなく仏門を叩くこともありません。お寺に用事があるのは冠婚葬祭の「葬」のときくらいです。明治の頃からお寺の存在意義は死んだときの手続きのためのものだったようですね。

崖の下の苦界で生きた人たちは、上に行くには死なねばならぬ。
横浜の乞食谷戸ではコレラ、ペスト、ハンセン病、梅毒、結核などの感染症が蔓延していたそうです。社会的弱者が集まる地域では感染症問題が付きまとうのが世の常。まだその当時は医療技術が発達していなかったため、感染症で亡くなった人は多かったのでしょうね。

山の上から見る横浜はキレイですね。

よくみるとこんなところに旅館があります。
本日の宿泊場所をまだ決めていませんでした。崖の下の乞食谷戸に泊まるってのもいいんじゃないでしょうか!

ラブホかよ!

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