山林生活

小説家・川崎長太郎が愛した抹香町 小田原にあった遊郭と私娼窟

小説家・川崎長太郎が愛した抹香町 小田原にあった遊郭と私娼窟

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本日は小田原に来ております。
戦国時代の小田原城は市街地も城郭に取り込んだ城郭都市で、難攻不落の名城でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐によって落城し、徳川家康が統治した際に規模を縮小させたそうです。

こちらは小田原城の天守です。
明治維新後1870年に天守は解体されましたが、戦後にお城ブームが到来。それに乗っかり1960年に鉄筋コンクリートでつくられたのが現在の天守です。

かつては防衛の拠点だった小田原城でしたが、現在は観光の拠点となっているようで全国で5番目に入場者が多いお城らしく、小田原への観光客は年々増え、2022年は過去最高の726万人に達したそうです。箱根の入り口でもある小田原は多くの観光客が来るのでしょうね。

小田原は城下町でもあり東海道の宿場町でした。江戸から京へ行く際に一番の難所である箱根越え。山道が険しいだけでなく、雨が降るとぬかるみが酷く、越えるのが大変だったんだとか。そのため多くの人が小田原宿で足止めになったのでしょう。人が留まることで小田原の宿場町は発展しました。

客が集まれば宿ができ飲食店ができ飲み屋ができる。街が発展し歓楽街となれば過激なサービスを期待するものです。そのため宿場町には性風俗店ができるもんですが、江戸時代は幕府の許可がなければ基本的には営業ができない。小田原には遊郭のようなところがなかったそうです。
実際は裏風俗的な店があったのでしょうが、それでは街の収益にはなりません。そのため何度か許可の申請を行ったのですが認可はおりませんでした。

でも時が過ぎ、許可が下りました。
何度も許可申請を行った結果、1805年以降に飯盛り女の設置許可を取り付けたのです。
遊郭ではなく旅館ですが泊まったらたまたま恋に落ちちゃう系の特殊浴場ならぬ特殊旅館。付加サービスのある旅館って感じでしょうか。
飯盛旅籠という形で旅館らしからぬ旅館が小田原には点在していたそうです。そのような状態が100年ほど続きました。
しかし1902年9月に死者11名を出す高潮の被害に遭い、沿岸部の家屋が流出したそうです。
特殊旅館も無傷ではなかったようで、内陸の方に移転する話がでました。また風俗店が点在しているってのは風紀上よくないとなったのでしょう。1903年に少し内陸に入ったところに遊郭が設置されました。名前は初音新地。場所は新玉(あらたま)交差点当たり。

現在は普通の住宅街になっています。
遊郭は戦後赤線街になるのが一般的ですが、小田原初音新地は昭和初期に消えてなくなっています。理由は定かではありませんが、おそらく人気があまりなかったようです。
小田原といえば箱根への入り口ですが、遊郭ができた当時は鉄道が開通し、小田原に立ち寄る人が減少したそうです。そのため客足が遠のいたのでしょう。また遊郭となったことでやってることは低俗なのに格式が高くなってしまったのも理由の一つ。人気がなく衰退したようです。

遊郭のあった近くには小田原教会があります。小田原教会は救世軍と同じプロテスタント系の教会です。救世軍といえば廃娼を唱えた教団。
女性の人権を蔑ろにしていた遊郭。そのような土地には神の手が必要です。プロテスタント系の教会ができたのも納得できます。

と思いきや、こちらの教会はもともとは小田原城そばにあったそうで、ここに引っ越してきたのは1994年なんだとか。

遊郭があった場所に教会ができる。何かしら因果があるのでしょう。

唯一の遊郭の名残りはこれらでしょうか。
パブスナックがあるってことは遊郭なき後もそれに近い店が細々と営業を続けていたのでしょう。

スーパースターと星が六つ描かれた看板。元々はクイーンビー、つまり女王蜂って店だったようです。演歌のカラオケクラブ「憩」って文字もうっすら見えます。駅から離れた飲み屋街は移り変わりが激しいものです。

こちらは食堂って書いてあるのでレストランです。そして飲み屋街で比較的目にする国旗。
普通の食堂かと思いきや夜の営業もしていてカラオケもある。食堂と称したスナック的なところでしょう。

飲み屋街で見ない日はない国旗。
こちらにはサリサリストア&レストランと書かれた店があります。

マニラトンド地区最大スラム「ハッピーランド」と「アロマ」
マニラトンド地区最大スラム「ハッピーランド」と「アロマ」

私はフィリピンをどちらかというと下に見ていました。いわゆる発展途上国でイメージがあまり良くない。衛生的で

サリサリストアとはフィリピンで見かけるよろず屋的な店。以前マニラのスラム街、トンド地区に行った際に見かけましたが、日本にも進出しているようです。この店があるってことは小田原にも多くのフィリピン人が進出しているのでしょう。

進出してました。
こちらはフィリピン料理レストランです。
カイビガンはタガログ語で友人という意味。

スナックはありますがその程度。あとは電柱に「初音」の文字が残ってるくらい。遊郭の雰囲気はないけれどもスナックが少しある感じがかつて色街だったことを伺わせます。

風紀上よくないとされ一カ所にまとめられ使い勝手がよくなったと思いきや、使い勝手だけではやっていけないのでしょう。客足は遠のき小田原の遊郭は消えてなくなりました。

高い遊郭には行きたくない!でも小田原っ子だってしたいときはしたい。そんなニーズに応えるように遊郭から500m南側に私娼窟が形成されました。

小田原、風紀上よくない街。

私娼窟があったのは抹香町ってところ。こちらに石碑があります。小田原は城下町だったのでこのように古い町名の書かれた石碑が点在しています。こちらの石碑には十王町・抹香町石碑と書かれています。この辺りは寺町で昼夜線香の香りが絶えなかったことからその名となったようです。明治のころはお寺の近くに私娼窟がある異常な雰囲気だったのでしょう。

しかし市街地の近くに非公認の私娼窟があるのはよくないため移転を余儀なくされたようで、昭和初期に抹香町から北東300mの位置に移転しました(大して変らない)。その場所を新開地と名付け、私娼窟営業が続いたそうです。

遊郭なき小田原。新開地は人気スポットだったようで、戦後も赤線街として営業が続けられていました。

こちらには川崎長太郎小屋跡という石碑があります。この川崎長太郎抜きでは小田原の歓楽街は語れません。

長太郎は1901年生まれの小田原出身の小説家で22歳から文学の道に進み1935年に芥川賞候補に選ばれるもその後ヒット作に恵まれず、売れだしたのは50歳以降。その間不遇の生活だったようです。その哀れな日々を綴った私小説が人気となり、1950年代にブームとなりました。

実家の電気も水道もない2畳の物置小屋でずっと生活をしていたそうで、その小屋がここにあったそうです。

今でいえば子供部屋おじさんになるのでしょうか。

そんな“こどおじ”だった長太郎の作品に1950年3月発表の「抹香町」ってのがあります。
私娼窟に通う初老の男と娼婦との触れ合いを描いた私小説です。タイトルの通り小田原にあった赤線街の出来事を綴った小説です。自分自身が赤線街に通い、そこで出会った娼婦との出来事を綴った自伝。

今風に言えば風俗体験記。

長太郎の書いた風俗体験記を読んでみました。

若いころは通っていたものの年を取って性風俗と縁がなくなった齢50の初老男性が粋狂で私娼窟へ足を運び、気が付いたらドハマりしたって実話をもとに書かれた短編小説。

娼婦に対し「ここは君の働くところじゃない」みたいな風俗行って説教するおじさんの話です。実話をもとにした小説なので実在する店の名前が出てきたり、街並みの描写があるため当時の小田原の情景が目に浮かびます。

現在の抹香町は小説で描かれてるような淫靡で猥雑な雰囲気はすでになく、普通の街並みになっています。長太郎が通っていた当時は小さな橋を渡った先に平屋建ての娼家が35軒ほどあったそうです。

抹香町があったのは小田原城の総構のところ。城郭都市だった小田原の端っこがここだったようです。室町時代まではお城の中でしたが江戸時代は取り壊され城下町へ。そして明治維新後にお堀があった場所が私娼窟となったようです。現在は暗渠となっており橋はないですが、この先が私娼窟だった場所です。

平屋が35軒ってことですがこの界隈にある建物はほぼ二階建て。そのため当時の建物は残っていないようです。

新開地が正式名称で抹香町は俗称でしたが。この界隈には抹香町の札をかかげる家があります。もしかしたら当時はその手の店だったのかもしれませんね。

こちらにはスナックがあります。かつて歓楽街だった場所にあるポツンと一軒スナック。なんか歴史を感じます。

こちらは町内にあった病院のようです。

日本医師会の会員と生活保護指定診療所の鑑札があります。感染症の多い地域には診療所が必須だったのでしょう。でも今は不要となったのか建物はそのままの状態で朽ちています。

こちらには旅館石川屋の看板がある建物があります。若干最近書かれた感がしますが、雰囲気は旅館っぽい感じ。この辺りはもともと私娼窟でしたが売春防止法により解体されました。その名残が旅館だったのでしょう。こちらは私娼窟を経て旅館になったところでしょうか。

現在は私娼窟の名残りはなく電柱に新開地の文字が残るだけで普通の住宅街です。長太郎が愛した抹香町は何も残っていませんでした。

長太郎が抹香町まで通っていたのは安かったからなんでしょうね。格式ばった遊郭、お高くとまってる花街よりも低俗で安く利用できる私娼街のほうがよかったのでしょう。私がその当時小田原に住んでいたのであれば同じ行動をしていたでしょう。

長太郎は売れた後も赤線街に通い続け、風俗体験記を小説として書き続けます。売春防止法が施行された1958年、抹香町にあった赤線は廃業となりました。でも長太郎にはたまりにたまった風俗体験記があったようで、その後も自身と娼婦の話を書き続けたようです。

こちらは長太郎が毎日通っていた食堂です。現在は食堂ではなく料亭になっています。私娼窟に頻繁に出入りしていた文豪と同じ釜の飯を食う体験がここではできるんです。しかもここは重要文化財に指定されています。

名前は...です。

同店は古くこのような鑑札も残っています。鑑札が古いためいつ届出があったのかわからないくらいになってます。料理店ってことは卑猥な店ではない様子。

こちらの店は天ぷらが有名のようですが長太郎は毎日ここでちらし寿司を食べていたんだそう。それであれば売春窟に通っていた文豪に倣い、ちらし寿司を食べます。

のってる具材はガリ、桜でんぶ、きゅうり、タケノコ、しいたけ、玉子。ここまではちらし寿司っぽいです。あとはイカ、マグロ、タイ、アジでしょうか。小田原地物の魚もあります。そしてナルトとかまぼこ。

想像していたちらし寿司とちょっと違います。ちらし寿司って錦糸卵に海苔といくらをバラバラっと酢飯にのせたやつでしたが、こちらのは海鮮丼に近い感じです。

ちらし寿司ってちょっと量が少なそうと思ってましたが結構な量。そして想定外のちらし寿司。

ちらし寿司ってサブ的な要素が強いですが同店ではメニューの最初に来る料理です。さすがは長太郎が愛した料理です。
かつては毎日気軽に立ち寄れる食堂だったようですが、現在は高級料亭っぽいところになりました。私もできる限り毎日私娼窟に行き、昼めしは高級料亭でちらし寿司が食べられるような身分を目指したいです。

そんな長太郎の住んでいた小屋は小田原の歓楽街「宮小路」のそばでした。宮小路は花街だったため性風俗営業は表向きはしていなかったのでしょうが、昭和に入りトルコ風呂が町内にありました。格式高い花街だとしても所詮は男女の色恋で成り立つ業種。その手の店はあったのでしょう。また小田原には駅近くに赤線もあったそうです。風紀の乱れた店が町内に点在するのはよくないってことで遊郭を設置しましたが、結局は私娼窟があっちこっちにあったようです。

やっぱり小田原は風紀上よくない街。

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