クロントイ・スラムは貧富の差が激しいバンコクにある最大規模のスラム街
クロントイ駅にいます。
本日はここよりクロントイ近辺を散策します。
バンコクのそばにはバンコク湾があります。つまりバンコクは港湾都市なんです。
港湾都市ってきくと海沿いっぽい感じがします。地図で見るとバンコクは海のそばのように思えますが、実際は海際ではありません。バンコク湾があるのはチャオプラヤ川で、海からは30kmも離れているんです。
バンコクに港をつくる話が持ち上がったのは1937年。港の設計は日本が行ったそうです。その当時から日本とタイはなんだかんだで深い関係だったんですね。しかし河川の港のため水位が浅く、また間口も狭い。さらには都心部に近いため渋滞問題にもなっているそうで、現在はバンコクより南にある沿岸都市に港を整備し、そちらに移っているそうです。それでも70年の歴史があり現在も物流の要として重要なポイントとなっているのでしょう。
日本は開国とともに近代化をしました。廃藩置県によって関所がなくなる。そうなると地方から多くの人が上京してきたそうです。働き口はあるけれど住む場所が無い。そのような人が本来人が住まない場所に定住し、そこにスラムができました。
現在は普通の街となっていますが、四谷にあった鮫が橋貧民窟はその当時大きなスラムだったそうです。
バンコクも1953年のバンコク湾開港を機に、近代化、工業化が加速しました。地方で働くよりもバンコク市内のほうが仕事がある。仕事を求め多くの地方民がバンコクに押し寄せました。また国内だけでなく近隣諸国からの難民、ボートピープルなど社会からはじかれた人たちも仕事を求めここに集まりました。
仕事はあるが住む場所が無い。そのため人が住むような場所ではない湿地帯に小屋を建て、そこに住みだしたそうです。それがクロントーイスラムのはじまり。1960年代頃にできたスラムですが、その形は現在も受け継がれているようです。
日本にもかつて出稼ぎ労働者が集まるドヤ街や、被差別部落の人の集落がスラムとして形成されていた時期がありましたが、市営住宅の建設や福祉事業の尽力により年々減少。
現在は多摩川の河川敷にホームレスがあつまる集落がある程度。それをスラムと呼ぶべきか微妙な規模のものしかありません。海外だとブラジルのファベーラやインドのダーラーヴィ地区といった大規模なスラム街があります。バンコクにもまだスラム街が現存しているそうですが、他のスラムのような凶悪犯罪がはびこり、モヒカン野郎がモトクロスに乗って「汚物は消毒だぁ」的なことはないそうです。ちょっとした貧民窟程度のようです。ってことでちょっと散歩します。
どうやらこの線路の先に行くとそのスラムにたどり着けるそうですが、脇に道がありません。どうすればよいか迷っていると普通に線路内を歩いていく人がいます。日本では芸能人が線路内に立ち入り撮影してSNSに投稿しただけで犯罪者扱いされ、芸能活動を自粛しなければならなくなりますが、バンコクでは線路内に立ち入っても何も言われません。
というより線路内で生活をしている人がいます。
なんか、雰囲気がよいですよね。ふつうに商店もあります。電車が走っていないと日当たりもよくて逆に静かな場所です。
線路区間を抜け今度は水路沿いを歩きます。
日本にも川沿いを不法占拠しているところがありました。バンコクでも同様に本来住めないような場所に家を建て不法占拠しているところがあるようです。
このあたりは最寄駅からは少し離れているものの中心地からはそこまで遠くありません。歩いてアソークにも出れる距離です。あまり良い生活環境ではないのでしょうが、利便性はよいのでしょう。
この辺りに住んでいる人は屋台、トラックやタクシー運転手の人も多くいるようで、路上に車や商売道具が放置してありました。
川のへりに張り付くように家が建っています。雨が降ったらかなりやばそうですね。ちなみにこの水路にはワニのような大きな両生類が泳いでいました。
ぼろくても家がある人は雨風が防げますが、この界隈には路上生活者(しかも家族)もいました。タイは現在日本と同じ、下手したら日本よりも富裕国で先進国となっていますが、その恩恵を受けるのは一部の人だけで、実際のところは日の当たらない生活を強要されている人が多くいるようです。
こちらがバンコク湾の入り口のようです。本日は閉鎖されていました。
港湾都市には荷役が必要。この界隈に仕事を求めやってきた人たちは船で運ばれてきた荷物を運ぶ仕事に従事していたのでしょう。
日本でも荷役業務が昔はあり、港にはその仕事に従事する人、そしてそれを差配する人(ヤクザ)がいたもんです。日本だとヤクザが差配人ですが、アメリカはギャングがその仕事を担ってました。ギャングの語源はオランダ語で「通路」や「行列・集団」を意味し、港湾労働者の集団をギャングと呼び、それを仕切っていた人もギャングと呼ばれてたのでしょう。このように日本だけでなく海外でも港湾役務はヤクザモンのするシノギ。そしてここバンコクでもそれを仕切っていた組織がいたのかもしれません。
明らかに落とし穴っぽいのがあります。夜道だと落ちそうです。
また線路地区に戻ってきました。この先にスラム街があるそうです。
地図で見ると少し隔離されたような場所です。日本にもこのような隔離された町がありますね。
本来ここは人が住むようなところではありませんでした。
川のそばで沼地や湿地帯のような場所に家を建てたようです。そのため雨が降れば泥濘となり、衛生的ではないんだとか。
現在は道路が舗装されていますが、いまだに下水の上に家が建っている状態です。排水は垂れ流し。中には上水道も電気もない家もあるんだとか。
こちらは町内の中心にある目抜き通り。両側には店があり朝なのに活気にあふれています。
なんとなくミャンマーっぽい雰囲気があります。弁当などが売っていますが値段も不明。多分安いんだと思いますが全然食指が動きません。バンコクの中心は英語があふれ、下手したら日本語も通じるところがありますが、数キロ離れたクロントーイ・スラムではタイ語しか書かれていません。
路地は人一人通れるくらいの幅。すれ違うのが難しいです。
各家の門戸は開け放たれ、なんとなく昭和の日本のような雰囲気。朝ごはんを作っている匂いと下水から漂う腐敗臭にふん尿の饐えた臭い。様々な匂いが入り混じり、鼻の奥を刺激します。まだ日が低い位置のためそこまで酷くはないですが、日が高くなれば温められて臭いがきつくなりそうです。
この界隈はネコが多いです。首輪をつけているため飼い猫です。ネコは癒されますね。しかしそれと同時に野良犬も多いです。10年前はバンコク中心地でも野良犬をよく見かけましたがここ最近は見なくなりました。でもちょっと離れただけで野良犬がけっこういます。人よりも犬の方が怖い。
犬とすれ違う時はすごい緊張します。
川崎のコリアンタウン同様にバンコクのこの辺りも元々は不法占拠により発展したそうです。以前は放置されていたようですが、治安の悪化、そして人権的な問題からこの界隈に行政もメスを入れたそうです。近年では福祉に力を入れ、日本と同じように市営住宅的なものを建ててそちらに住めるようにしているみたいです。しかしいまだに不法占拠の状態は変わらず続いていて、タイの悩みの種となっているみたいですね。
問題点はそこに住んでいるのがタイ国籍ではない人たちってところのようです。この界隈にはタイ地方移住者だけでなくカンボジアやミャンマー、ベトナムの人が多く住んでいるそうです。いわゆる社会的弱者の人たち。中には国籍もわからない人もいるようです。教育や福祉を充実させてもなかなか解消できないようですね。
とくに今回のコロナによりさらに悪化したでしょう。そしてコロナ禍後のインフレによりさらに人口が増えそうです。
でも、ちょっと衛生的ではないですが、この近辺の雰囲気は悪くないです。平成生まれの人は知らないかもしれませんが、なんとなく昭和の雰囲気があります。
私の子供のころはまだ下水は垂れ流しの状態で家の近くには鮮やかなエメラルドグリーン色したどぶ川が流れていました。その当時の雰囲気がここでは味わえます。夜は不安ですが日中であれば問題なさそうですしね。
スラム街と聞いて気を詰めて臨みましたが、ちょっと古い建物がある程度の場所でした。
川崎と大差ない。なんだったら川崎の方が治安悪そう。そんな感じです。
こちらは近くにあるクロントイ市場です。朝から活気にあふれています。ハエとかすげー飛んでますがなんかいいですね。
カエルも普通に売っています。そういえばバンコクでカエル食べたことが無いですね。
ウナギも売っていました。もっぱら屋台でしか食べて無いため食べるものが固定されています。今後はちょっと違った料理も食べてみたいですね。
今日はいつもよりも早めに行動してみました。
奥に見える高層ビルは富裕層が集まるエリアです。
発展途上国だったタイは現在発展し先進国の仲間入りをしています。実際に街はキレイになりこのような高層マンションやビルができています。しかしそれとは真逆に未だに前時代的な生活をしている人たちも多くいます。それがハイブランドが入居するショッピングモールのすぐそばにあるんです。タイでは貧富の差がかなりあるようです。
私はどちらかというと、奥の高層ビルエリアではなく手前側の人間のようです。こっちの方がなんか落ち着きます。