港崎遊郭から永真遊郭まで。幕末からの横浜遊郭の変貌
今日は横浜の関内にいます。
関内という地名、これまで由来とか気にしていませんでしたが、漢字のとおり「関所の内側」から来ているそうです。
横浜は開国の際に作られた港です。開国といっても外国人を自由に行動させるわけにはいきません。そのため外国人居留地をつくり、その中だけで居居住・行動できる、いわゆる出国エリア的なものを設けたそうです。そこは外国と同じ、そのため居留地は隔離されており、関所(入国ゲート)を通らなきゃダメだったんです。
外国人居留地側、現在の赤レンガ倉庫や馬車道駅側を「関内」。
伊勢佐木モール側を「関外」と呼び、関内という名称だけまだ残っているようです。
関内はここに関所があったというだけで通称名称。そのため駅名では採用されていますが地名にはなっていません。
こちらが関所のあったところ。
吉田橋を越えるとそこが日本。
こちら側は外国って扱い。
もともと横浜は横浜村という漁村でした。東海道からも少し離れており、大岡川や帷子川などの河川も多くアクセスし辛い。さらには沼地で利用価値のない土地だったそうです。
神奈川の中心地は東海道沿いにあった神奈川宿でした。現在の東神奈川駅あたり。神奈川県が横浜県ではなく神奈川なのもこれが理由でしょう。日本橋から3つ目の宿場町で神奈川宿はかなり栄えていたそうです。
ペリー来航後、日本は開国を迫られ日米修好通商条約で神奈川に外国人が出入りできる港をつくると取り決めました。しかし神奈川宿は交通の要であり、重要拠点。そのようなところに外国人が出入りするのはよくないと幕府も思ったのでしょう。そのため神奈川の解釈を広めて、横浜村も神奈川の一部としたそうです。
当然外国人も黙っちゃいません。神奈川にある反町遊郭に行きたいのになんかクソ田舎が拠点となるのは納得できず、条約違反だと駄々をこねるわけです。
でも、結局横浜に港ができました。
このように話がまとまったのは横浜に遊郭をつくったのが一つの理由でもあるそうです。
ここに遊郭作るから、それで許してちょんまげ。
日本人はhentaiと今では言われますが、当時の外国人も大差ありません。中国に行けば中華料理食べたいし、タイに行けばタイ料理食べたい。せっかく日本に来たんだから、日本人の肌に触れたいのでしょう。一時は難色を示していましたが、遊郭をつくることを条件に港は横浜村でOKとなったそうです(諸説あり)。
その遊廓があったのが現在の横浜公園のあたり。
関内に作られた遊郭は「港崎遊郭(みよざき)」と呼ばれ、街の作りは吉原と同じ碁盤の目にし、接客は長崎の丸山遊郭を真似たんだそう。いわゆる外国人のお偉いさんたちのための接待施設的なやつなのでしょう。横浜の街は遊郭がなければこのように発展していなかったのかもしれません。
現在は横浜公園になっており、横浜スタジアムがあります。
こちらには遊郭の名残りの灯籠があります。岩亀楼という妓楼の名前が書かれてあります。
横浜市はみなとみらいに統合型リゾート施設の誘致を進めていましたが、一転して撤回となりました。これで当分横浜にカジノができることはないのでしょう。
カジノは地域活性化の一つでもありますが、外国人旅行者の獲得のため。インバウンド事業の一環ってやつでしょうか。いわゆる公共事業です。当然それに群がる輩が大勢いるわけです。大手の建設業者やちょっと怪しいエンターテインメント企業、そして広告代理店。名前は知っているけど悪い噂ばかり耳にする企業が名をあげてました。このように企業が名乗りをあげる理由は単純に儲かるからなのでしょう。
それは江戸時代でも同じ。遊郭を作るとなった途端、名乗りをあげたのが品川宿で妓楼を営んでいた「岩亀楼(がんきろう)」。この灯籠は岩亀楼のものなんだそう。元々名の知れた妓楼だったそうですが、港崎遊郭でさらなる財を成したそうです。それだけ利用者も多く、ここは人気だったのでしょう。
しかし大人の街だった港崎遊郭は、ファミリー向けのパブリックランド、つまり公園になっています。
遊郭があったところは吉原や川崎堀之内同様に“別のランド”になるもんですが、ここはそうではありませんでした。
性風俗街にならなかった理由は、明治になる以前に港崎遊郭は消滅したからです。
1866年(慶応元年)11月26日、関内にある豚肉料理屋から出火。火の手は港崎遊郭にも燃え広がり、遊女400人以上が焼死、遊郭の大半が焼失したそうです。この火事により遊廓は消滅しました。
江戸の頃から木造建築が主だった日本は火災に苛まれていましたが、火事があっても立ち上がるのが日本人。てっきり再建するもんだと思いますが、そうではなかったようです。日本とアメリカとの間で火事があった場合再建しないと取り決めがあったそうで、港崎遊郭は横浜開港からわずか七年でなくなってしまったようです。遊郭を作るのを条件に横浜に港をつくることを呑んだのに、その遊郭がなくなっちゃったんです。
そりゃエロい外国人が黙っていません。
「洗体エステでもいいから!別の場所に遊郭作ってもらえませんかね?」
ってわけで別の場所に遊郭を作ることになりました。
それが吉原町遊郭ってところ。場所は現在の伊勢佐木モールや羽衣町のあたり。
もともと沼地や田畑だったところに作られたため「吉原町」という名称は遊郭を作る際にできた町名なんでしょうね。現在は吉原の名は残っていません。羽衣遊郭とも呼ばれていたそうで、羽衣町の名は現存しています。
パセラのあるこのあたりが遊郭の中心。横浜駅根岸道路あたりまでが遊郭の敷地だったそうです。
この道は「浜っ子通り」という名の通りですが、通称は親不孝通りと呼ばれています。
吉原町遊郭だったころからこの場所は親不孝者が集まる地域なのでしょう。伊勢佐木から曙町まで続くこの通り、飲み屋だけでなく性風俗店も多くあります。
浜っ子通りというよりハマヘルっ子通り。というより不幸どころの騒ぎじゃない。
ここが横浜のイメージ!これは親不孝間違いなし。
なんとなくこの辺には遊郭の名残りが残っていますが、これらはあとから出来たお店。その理由は吉原町遊郭もまた1871年に火災により焼失したから。明治の頃にすでに無くなっていたんですね。横浜開港してまだ十年ちょっとしか経ってないのにこんな状態です。
でも、エロい外国人が黙っていません。
「粒ぞろいじゃなくてよいから!また遊郭を作って!!」
そんな願いを叶えるために、少し離れた場所に新たに遊廓を作ったそうです。
場所は高島町、横浜駅の南の方角です。
崎陽軒は横浜を代表する老舗企業です。
駅構内に案内板も出るくらい有名。新横浜から新幹線に乗るときは必ずシウマイ弁当を購入します。あの冷たくて硬い米がいいんですよね。冷たくても美味しく食べられるように研究されているようです。
崎陽軒って結婚式場まで手掛けてるんですね。
やっぱり料理はシウマイ弁当なんですかね。あの冷たい米がでてくるのでしょうか。杏子に醤油かけて食べるんでしょうか。
こちら、帷子川に架かる万里橋です。
横浜駅は西口側に繁華街があり、大型店舗があります。南側は大型店舗が少なくちょっと静かな街並み。この辺りは裏横浜と呼ばれているんだとか。
あまり開発されておらず静かな場所となっていますが、このあたりに高島町遊郭があったそうです。
吉原町遊郭の火災から一年後の1872年。高島町に遊郭ができました。
そもそも吉原遊郭を取り潰して別のところに新しく遊郭を新設する話が出ていたそうです。そのタイミングで火災が発生。それにより高島町に移すことになったそうです。
現在のこのあたりは横浜から桜木町に向かう京浜東北線が走っており、線路の反対側はみなとみらいですが、その当時は海際でまだ埋立がそこまでされていなかったそうです。
こちらは岩亀稲荷というお稲荷さんがあります。もともとこのあたりには遊女の寮があったそうです。高島町に遊郭を移転したのもそれが理由なのかもしれませんね。岩亀の名の通り、ここは岩亀楼にゆかりのあるお稲荷さん。
スゲー誰かの家っぽい雰囲気。家の玄関が見えて入るの躊躇します。万が一怒られたら謝ればよいかなってことで入ってみます。
小さな社があります。ここのお稲荷さんにお願いすると「女性の病が治る」そうです。もともとこのあたりは遊女の療養施設があり、梅毒や結核などの感染症で療養していた遊女も多かったのでしょう。遊郭の近くには性病予防や安産祈願の神社があるものです。
このように横浜の遊郭は港崎遊郭⇒吉原町遊郭⇒高島町遊郭と転々としましたが、また高島町遊郭も移転を余儀なくされました。
日本は開国とともに文明開化となり外国の技術が流入してきました。その一つが鉄道です。
1872年に日本最初の鉄道が新橋⇒横浜間を走りました。今の横浜駅は高島町にありますが、当時の横浜駅は桜木町だったそうです。つまり、新橋から来た列車は、ターミナル駅に着く前に高島町遊郭のそばを走っていたんです。
今で考えれば吉原のど真ん中に電車が走っている状態。車窓から見えるのが性風俗店なんです。
性風俗店は国から「性風俗は本質的に不健全」とお墨付きをもらう職業です。これは江戸の頃から何も変わっておらずその当時から不健全な業種であり、できれば人目につかないところが望ましいと思われていたのでしょう。そんなわけで高島町遊郭は10年の期限付きの限定遊郭だったそうです。
1881年に高島町遊郭は閉鎖。横浜の遊郭は外国技術でなくなったようなもんです。
でも、エロい外国人が黙っていません。
「別の場所でいいから遊郭を作って!」
と移転した先が現在の眞金町、永楽町のある永真遊郭でした。
これまで10年そこそこで移転を繰りかえしてきましたが、やっと永住地を見つけられたのでしょう。1880年に永真遊廓ができ、売春防止法ができる1958年まで性風俗街として生き残っていたそうです。
こちらが永真遊郭のあった場所です。町の作りが東京の吉原っぽい感じ。碁盤の目になっていて遊郭の端はハレとケを分けるようにお堀があったそうですが現在は土手になっています。
永真遊郭の中にある銭湯に以前お邪魔したことがあります。こちらの永楽湯は1951年創業なので赤線時代の頃を知る銭湯です。
永真遊郭も大正11年に火災、その翌年は関東大震災により全壊、終戦間近には横浜大空襲により全壊と不遇続きだったようですが、エロの力は偉大です。火災に遭いつつも再建し、戦後はすぐに赤線街となりました。戦後の永真遊郭は在留米兵の慰安所的な役割をしていたそうです。横浜の遊郭ははじまりも終わりも外国人向けだったようですね。
こちらは永真遊郭の一番奥にある大鷲神社です。
大鷲神社は元々吉原町遊郭にありましたがこちらに移設されたようですね。
知った名前の玉垣があります。
桂歌丸師匠の生まれは永真遊郭で自宅は遊女屋をしていたそうです。落語には廓噺というジャンルがあるように噺家と遊郭は縁が深いです。師匠が落語家になったのも産まれた場所が影響しているのかもしれませんね。
こちらは永真遊郭の裏手にある横浜橋通商店街です。華やかな街だった永真遊郭は住宅街となり、現在はこっちの方が栄えているようです。
永真遊郭は遊郭の雰囲気はなく、あるのは神社とお堀の跡だけでした。
横浜の遊郭は幕末から戦後までこんな感じで移転し続けていたようです。
現在の遊郭的な場所は曙町や福富町あたりでしょうか。これもまた時代とともに変化するのかもしれませんね(コロナ禍以前とあまり変わってませんが)。
本日はせっかく横浜にいるので文明開化を味わいたいです。ってわけで横浜発祥の牛鍋を食べます。
本当はこちらの牛鍋店に行きたかったのですが、二人前からってのと平日ランチをしていませんでした。
ってわけでこちらのお店にしました。
夜はちょっと高いのですがランチだと1000円前後で食べられます。
いいですね。文明開化の味がします。
明治の頃の人たちは、牛鍋を食べて精をつけ、その勢いで遊郭の門をくぐったのでしょう。
遊郭は無いですが、遊郭に準ずるお店が横浜にはあります。精も付いたわけですし、“文明開化の味”を確かめるべきでしょう。